俳句時評 第48回 山田耕司

大友克洋をめぐる評論を読んで、俳句をめぐる環境を反省する。

「なんだ、爆心地じゃねーか、ここは・・・・・・・」 大友克洋 『AKIRA』より

今回は、史観の話。

表現の細部にこそ、新しさは宿るという話。
もしくは、世代論の強調は史観を見渡すことと矛盾するのではないか、という話。

芸術新潮の4月号、「大特集/大友克洋の衝撃」に惚れた。

濃い。82頁分、フルカラー、大友克洋ざんまい。
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特集の概要はこんなところ。

全点撮りおろし特別誌上GENGA展、中条省平(学習院大学教授)をインタビュアーとする大友克洋へのロングインタビュー、描きおろし短編「DJ TECK の MORNING ATTACK」、村上知彦(まんが評論家/神戸松陰女子学院大学教授)評論「マンガ史を呑み込む『空白』」、アトリエ+スタジオ訪問記、柳下毅一郎(翻訳家/映画評論家)評論「なめらかなる映像世界/<全て>を見る演出の視線」、パトリック・マシアス(日本映画評論家)+訳・構成 町山智浩(映画評論家)「USAレポート 海を越える『AKIRA』ショック」、山本直樹(マンガ家)「1979年の大友克洋」、中島哲也(映画監督)「日本人には作れなかった距離感」、高寺彰彦(マンガ家)「いきなりアシスタントですか?」、椹木野衣(美術評論家)評論「近代美術史を包括する絵画性」。

惚れたのは、大友克洋が好きだということもある。ともあれ、執筆陣とその文章にはグッと来た。

  • マンガをサブカルチャーとくくる、もしくはそれに抵抗する、という「領土問題」に終始することがない。
  • 語る対象作家を輪切りにされた特定の世代に閉じ込めない。
  • あくまで「表現」は「表現」の歴史において位置づける。

もろもろ面白いところはあるのだけれど、グッと来た根拠を3つ挙げるとすれば上記。

  • 前衛なり伝統なりの「領土問題」を通じて俳句を語ること。
  • 何かといえば「世代」というくくりを持ち出すこと。
  • 社会状況や個人状況など付帯情報への共感(反感)が、表現そのものを語ることに優先すること。

こんな俳句評論の文章を自らがうっかり書いてしまいそうになることへの自戒、そして、読まなければならない時に感じる違和感、そんなものがあればこその「惚れ」。

たとえば、村上知彦氏は、大友克洋が読者を引きつけるものとして「その絵のうまさ、線の魅力」を分析したうえでこう述べる。

大友克洋がマンガ界に与えた衝撃とは、それまでのマンガの絵や物語が示してきた「リアルさ」の水準をことごとく覆してしまったことにある。ほのぼのとした子供マンガから、悲劇も描く手塚ストーリーマンガへ。モダンにデフォルメされ、ユーモアを忘れない手塚マンガから、無骨でグロテスクな貸本劇画へ。青年期の心情を殺伐とした描写に仮託した貸本劇画から、大人の読物としての現実感と洗練を目指した青年劇画へ――それらすべてが大友克洋のマンガの前では単なる絵空事に成り下がる。

大友克洋が注目を集めた’70年代後半から’80年代にかけての時代は、あらゆる物語が「語りつくされた」といわれた時代でもあった。語るべき大文字のテーマが現実感を失い、内面を失った表層だけが時代を覆いつくそうとしているかに思えた。そんなとき、これまでのマンガ・劇画が立ってきた“らしさ”もまた虚構にすぎないことを白日の下にさらし、語るべきことの無さを雄弁に語る完璧な「表層」こそが、この時代における「リアル」なのだと、その圧倒的な絵の力で示してみせたのが大友克洋だったのである。

<大友克洋が注目を集めた’70年代後半から’80年代にかけての時代は、あらゆる物語が「語りつくされた」といわれた時代でもあった>という箇所には異論もあろうが、ともあれ、相対的な変化としての歴史観そのものをくつがえすものとして「圧倒的な絵の力で示してみせた」「表層」の力に注目しているところに、表現史をとらえる視座を導かれた気がして「惚れ」。

椹木野衣氏は、「日本の具象絵画の黎明から大正期の在野の画家たち、筆達者の画家ならではの戦争画の競演、そして高度成長期の日常をありのままに描いた写生画から近未来という『なつかしい廃墟』、むろん、マンガやイラストから果ては映画・映像に至るまで、そのすべてを等価に包み込む博覧会=廃墟的ロマンティシズム」という「包括的な世界観」を持つ作家として大友克洋をとらえる。

実社会に対応する記録ではなく、作家が何を表現したかったかということの変化の履歴として通史をとらえることにおいてこそ、歴史を<等価に包み込む>表現を見届けることになるのであろう、その史観。そして、マンガとはなにか、絵画とはなにか、日本人とはなにか、などを境域として囲い込むのではなく、むしろそれらを超えてゆくものを見届けようとする、その史観。そこに「惚れ」。

ここではたまたま近代日本の具象画が内包してきた「違和感」をテコとして話が展開されてはいるが、たとえば山口晃を起点とすれば、近代以前のおそらくは洛中洛外図や涅槃図のありようを向こうにおいて大友克洋を見届ける史観が提示されるであろう。そうした史的遠近法において、世代、あるいは時代というものは、通史を物語る上での契機として用いられることはありこそすれ、確定された価値として扱われないことだろう。

ことあらためて言うことではないのかもしれないが、歴史を語るということは、過去を確定させることではなく、いったん固定されたと思われている過去の履歴を流動化させるべく物語る行為なのではないか。そうした流動的な史観を機能させられず、過去への価値を固定化してしまう世界は、衰退をしていくよりほかに道がなくなるのではないか。

芸術新潮のそんな記事を読みながら、どこかでこのテイストの言説にふれた気がして思い出すこと、しばし。

これでした。

俳句同人誌「豈」に掲載されていた、神野紗希のこのフレーズ。

その懐疑の目で見たとき、前衛と伝統という二項対立もまた、疑わしいものに映るだろう。「新しさ」というのは、最も細部に宿るのでは。すでに「新しさ」はないかも。いや、ある。そんな風に、いくつもの選択可能性を留保しながら、その都度選んでいくことが、誠実なスタンスだと、これはおそらく、信じている。

「豈」 52 号 <特集 前衛は生きているか、伝統は死んだか> 2011年 10月13日 発行

<「前衛俳句」を疑う>という表題がついている。

作品を本位とした「細部」へのまなざし、更新されるべきものとして過去に向かい合う姿勢、これから出逢う表現を起点にして過去を照射しなおすことこそが史観を弾力化すること、そんなことをこのメッセージから汲み取るのであるが、それがまさしく大友克洋をめぐる言説と重なりあうのであった。

神野紗希、見事、と思うことは思いつつ。
同時に、彼女がこうした意見に至る際に、世代観を経由せざるを得ないことに、(神野紗希個人への批判というよりは)俳句を批評する環境のありようをしみじみ感じてしまったのだった。

この部分をかたまりで読んでみよう。

世代の傾向に共通しているのは、「既存のものが信じられない」というところから発する、疑いの姿勢だろう。戦争に負けてナショナリズムが崩壊し、学生運動が頓挫して大きな物語が崩壊し、そんな時代に彼らは生まれた。年金だって、もらえる保障はどこにもない。俳句を語るとき、「リアル」という語に拘るのも、敢えて日常的でトリビアルなことを句にしようとするのも、「今、ここ」にある目の前のものだけは、疑いようのない真実だという思いがあるからだ。山口優夢が、アンソロジー『新撰21』(邑書林)に参加したゼロ年代俳人の作品を批評した書籍に『抒情なき世代』(邑書林)というタイトルをつけたのも頷ける。抒情とは、肯定を基本とした姿勢だ。疑いを基本とした俳句作品に、従来と同じ抒情が宿るはずが無いのである。

上記文章中の<彼ら>とは「ゼロ年代俳人、特に二十代の俳人」のことだそうである。さて、現在の二十代の方々が<戦争に負けてナショナリズムが崩壊し、学生運動が頓挫して大きな物語が崩壊し>という時代を背負わざるを得ないとは、予想外ではあったが、こまかいことはいいとして、「疑い」というキーワードで世代をくくっているところに注目したい。

「疑い」とは、疑うべき対象があってこそであり、それはつまり先行する時代に対して相対的な反応をせざるを得ないということになるのではないだろうか。

文は続く。

冬の金魚家は安全だと思う   越智友亮
投函のたびにポストへ光入る   山口優夢
知らない町の吹雪のなかは知っている   佐藤文香
開戦や身近な猿の後頭部   谷雄介
信じゆくは/遥かなる穂//ひとり渡る  外山一機
洋梨とタイプライター日が昇る   高柳克弘
おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ  御中虫

これらの句には、それぞれ疑いがある。夏の季語である金魚の冬の姿を描くことで、リアルを言いとめている越智句。季語を放棄しながら新鮮な詩性をたたえる山口句。福永耕二の「新宿ははるかなる墓碑鳥渡る」から、音だけ取り出して、違った意味を当てた外山句。定型や季語を無視することで圧倒的な迫力を持つ御中句。いずれも、高度にシステム化された既存の俳句らしさへの疑いのまなざしが、句を新鮮なものにしている。

「疑い」というのは、夏の季語を冬に使うことを言うのか。季語を捨てることが世代的な特徴としての「疑い」になりうるのか。御中虫の句の迫力は定型や季語を無視することで生まれるのか。先行する作品にもたれかからなければ成立しない外山の句は「疑い」を偽装しながらの自恃の放棄なのではないか。

など、まあ、各論においては、素直に呑み込めないこと、これ多々あり。ここは神野としても紙幅の関係もあって書き切ることが出来ずもどかしいところではあったかもしれないし、山田の偏った見方にも読者からは異議あるところであろう。見逃せないのは、このフレーズ「高度にシステム化された既存の俳句らしさ」というところ。

 

こんなふうにひとからげにされた挙句、ゼロ年代および二十代の人ばかりが「疑う」俳句形式とは、何ぞや。

ここまで俳句をとりまく環境というのは硬直化しているのだろうか。

俳句をめぐる史観というものは、血の巡りが悪いものなのか。

そもそも、弾力的でつねに検証される歴史観と、特定の社会背景をぶらさげた世代論とは、あまり相性がよくないのではないだろうか。

  • 前提となる時代観は、その世代すべてに共有されているわけではない。
  • 仮に「時代の空気」なるものを共有しているとしても、作品の読みにそれらが不可欠だとしたら、世代における「時代の空気」とは、文字として表現されている作品の細部を重んじる姿勢と矛盾するのではないか。
  • 「世代」を境域として区分することを目的にすると、過去とは確定されたものとして図式化されることとなり、それはまた来るべき「世代」によってより過去へと押し込まれるという平板な歴史観を形成することになるのではないか。

ということで、俳句という環境についての反省と問題提起。

神野紗希、句集新刊とのこと。これは楽しみ。

『光まみれの蜂』(角川書店 2012年4月末刊行予定 )

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