かくれ逢ふ聖樹のかげよエホバゆるせ 『冬濤』
女はクリスマスの夜から堕落する、ということばを何かでよんだ覚えがあるけれど、その例にもれず私も何十回かのクリスマスを重ねているうちにだんだん堕落して、こんな人間になったのではないかと思われるふしがある
随筆集『古日傘』の「降誕祭」の冒頭である。クリスチャンだった一家は、聖夜を家族揃って教会で過ごし、きくのは15歳で受洗している。
先に引いた文章は、9歳の聖夜の記憶がつづられる。教会で配られる菓子を偶然ふたつもらってしまったことを家に帰って告白したが、母はにっこりと笑っただけだった。当然叱られることを覚悟していた少女は、「このくらいのことならしてもよいのだなという確信を得て、このとき、それだけ堕落した」と結ばれる。きくののひとつめの堕落の記憶であろう。
掲句は、きらびやかな聖樹のもとでの逢瀬でありながら、隠れるようにして逢わなければならない事情が、聖なる夜をけがしていることに胸を痛める。クリスチャンであるきくのにとって、聖夜は家族とともに過ごす特別な時間であった。なおさら恋人に妻子があることを意識せざるを得ない、いわば自虐的ともいえる逢瀬である。
背信の罪軽からず冬の虹 『榧の実』
にも同じ傾向の背徳感は出ているが、掲句の率直さには及ばない。きくのに字余りの作品がほとんど見られないこともあり、下六となった「エホバゆるせ」が、どうにもならない女の慟哭となって渦巻いている。
椿真赤嫉みアダムのむかしより 『冬濤』
罪なきもの石もて搏てと蛇出づる 『冬濤以後』
などの作品にも、クリスチャンの横顔がみてとれる。
キリスト教のいう七つの大罪とは、「傲慢」「憤怒」「嫉妬」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」であるが、きくのは「色欲」「嫉妬」に囚われる自身を、嘆き悔いていたのだろう。
二句目は聖書の「罪なき者が先ずこの女に石を投げよ(注1)」である。これは忌むべき蛇の姿に、かの言葉を重ねているが、蛇はまたきくの自身でもある。
亡くなる数年前となる次の作品には、堕落を重ねてきたと自覚しながら、最後まで聖書を折々の心のよりどころとして、生きていたきくのの姿がある。
復活祭亡母の聖書を死まで持つ 「俳句研究」昭和57年5月号
天上に宝積めよと聖書春 「春燈」昭和58年4月号
(注1)姦通の現場で捕らえられた女を連れて来た。律法では石打ちの死刑に値する。イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言った。これを聞いて誰も女に石を投げることができず、引き下がった。また、イエスも女の罪を許した。(ヨハネによる福音書第8章3節-11節)