戦後俳句を読む (11 – 2) ―「秋」を読む― 稲垣きくのの句 / 土肥あき子

まぼろしの狐あそべる花野かな   『冬濤』
少女等の円陣花野より華麗   『冬濤』
振向けば花野の虚空うしろにも   『冬濤』
花野きてけものの如く耳を立つ   『冬濤』
日と見しは月花野にて刻失ふ   『冬濤以後』
霧が溶く花野の色の流れだす   『冬濤以後』
死場所のなき身と思ふ花野きて   『冬濤以後』
壺の花に花野の風の通ふらし   『花野』
花野の日負ふさみしさは口にせず   『花野』

きくのには花野の句が多い。

生前最後の句集『冬濤以後』から没年までの19年間の作品をまとめた『花野』の編者西嶋あさ子氏の編者あとがきによれば、

集名については『冬濤以後』の章名にも取られ、その後の特別作品にも使われていて、きくのさんに似つかわしいと思ってきめた

とある。続けて

きくのさんは、華やかで、さびしげで、かわいい面もお持ちであることは、作品が物語る

と続き、まさに光りと影の交錯する花野の人の像が結ばれる。

掲句冒頭のまぼろしの狐は昭和38年(1963)、きくの57歳の作品である。

きくのが以前疎開のため身を寄せていたのは、浅間山麓の農村である。信州には古くから「管狐(くだぎつね)」の伝承がある。広辞苑によると「通力を具え、これを使う一種の祈祷師がいて、竹管の中に入れて運ぶ」という。また、関東まで害が及ばなかったのは戸田川を越えられないためともいわれる。竹筒に収まるハツカネズミほどの小ささと、水を嫌うあまり勢力を広げない習性などを考えあわせると、なんとも可愛らしい狐の姿が浮かび上がる。もちろん、土地の者にしてみれば、「管持ち」「狐憑き」など、なにかにつけ身近に怖れられてきたのだろうが、おそらく他所から来ているきくのには、どこか可愛らしい狐の話しとして耳にしていたのではないかと思う。

きらきらと日が射し、風にそよぐ一面の花野のなかでは、ものの影が自在に踊る。ざわめく風のなかで、ふと伝承の狐がきくのの胸に降りてきたのではないだろうか。

管狐はたちまち75匹に増えるという。忌み嫌われている小さな狐たちを、せめてこの花野で遊ばせてあげたいというきくのの心が見せたファンタジーかもしれない。

多く花野を詠んできたきくのの最後の花野は、昭和54年73歳の作品である。

花野見にゆくだけの旅支度して 『花野』

もう一度、まぼろしの狐に会うための旅でもあったのかもしれない。

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