戦後俳句を読む (13 – 1) ―「冬」を読む― 稲垣きくのの句 / 土肥あき子

短日や灯ともし頃の小買物   「ホトトギス」昭和16年2月号

昭和12年(1937)と昭和16年(1941)のきくのの句帳が手許にある。

昭和12年は改造社版の俳句日記であり、元旦から一日一句から数句、時折ふっと空白の数日を交えながら大晦日まで美しい毛筆で綴られる。2月18日には

やうやくのわが名嬉しき虚子選

とある。この時期ホトトギス誌に投句していたのか、と調べてみたがきくのの名はない。はっきり日付もあることからどういうわけか考えあぐねていたら、ひょんなことから答えが見つかった。

昭和48年9月号の「俳句研究」の特集「私の初学時代」にきくのは「あの頃」と題して俳句との出会いを書いている。そこには、昭和11年(1936)の夏のある日、きくのの家に遊びにきた友人が大場白水郎主宰の俳誌「春蘭」を置いていったことからの俳句への興味の扉が開いたと書かれている。そして、

ホトトギスは知っていたので、もし俳句をやるならそれを見るべきだと考え、早速、購読を申し込んだ

とある。同じ頃、新聞の俳句短歌欄にも投句する。当時の東京日日新聞の俳句欄選者は長谷川かな女。そして初めて投稿した

白檀のやうやく淡し秋扇

が「天」として掲載され、また同時期、短歌欄にも投稿し、こちらは「地」であったというから、きくのの俳句への興味はここで決定付けられたようだ。創刊一年足らずの活気のみなぎる「春蘭」に投句するかたわら、「ホトトギス」を購読し、新聞に投稿を続けていたきくのの元に「ホトトギス」から例会のはがきが届く。昭和12年(1937)2月18日、会場は丸ビル8階。きくのは初めての句会を「ホトトギス」で経験する。そしてその場で虚子、立子の両選を獲得するのである。そこでようやく、先の「わが名嬉しき」はこの虚子選だったことが判明したのだ。「蓬摘」が席題だったというその句とは

蓬摘みまだ枯草の野は広し

きくのは、初めて虚子を目の当たりにし、

あれほどの緊張感はそれからの自分の人生経験のなかでもそう度度はなかった」、そして「ただ一度のホトトギス句会の緊張が自分を急速に成長させてくれた。

と締めくくる。

いささか成功談めいているが、しかし次に手帳にホトトギスの文字を見つけるのは昭和16年の手帳の方である。それは和紙綴じの美しい一冊で、「一月六日渋沢邸句会」「六月一日特急アジア」など出席した句会や、旅吟の場所などとともに書き直し跡のほとんどない作品が整然と並んでいるため、投句の際の覚書のようだ。冒頭の作品の書き込まれたページには「ホトトギス 昭和十六年二月号」と並記されている。ホトトギス誌を確認してみると、確かに該当号の虚子選一句欄にきくのの名は埋もれるようにしてあった。投句した作品の掲載誌を書き込んでいるのは、なぜかこの一句きりである。

この頃、「春蘭」主宰大場白水郎の満州転勤に伴い昭和15年(1940)6月号で終刊、同年10月に「春蘭」同人であった岡田八千代が中心となって白水郎を選者に「縷紅」が創刊された時期である。誌名は白水郎の別号であった縷紅亭による。昭和19年(1944)1月号で休刊となる「縷紅」だが、バックナンバーが確認できるのは昭和17年(1942)8月号、昭和18年(1943)8月号、9月号の3冊きりである。昭和18年にはきくのの住まいが投句先として表示されており、きくのが積極的にこの新しい雑誌に関わっていたことがわかる。

ホトトギスに掲載された同時期の「春蘭」では

初髪に觸るゝ暖簾ットかはし  「春蘭」昭和15年(1940)3月号

などの作品が見られる。「ット」はひょいとかわす態であろう。この自在な言語感覚!

また昭和17年(1942)8月号「縷紅」には

藻の花や相觸れし手のたゞならず
藻の花やなんにも云はず別れませう

と、正調きくの節ともいえる作品が並ぶ。

ホトトギス掲載句に立ち現れる純情可憐な女性像もまたきくの自身であることは間違いないが、きくのはあくまできくのらしい自由な詩を模索していくことを選択した。

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