戦後俳句を読む (14 – 1) ―「春」を読む― 稲垣きくのの句 / 土肥あき子

春の夜のこころもてあそばれしかな   『榧の実』
春の夜の触れてさだかにをとこの手   『冬濤』
春の夜の夢にもひとの泣くばかり   「俳句研究」昭和55年(1980)5月号

きくのの最初の師、大場白水郎の「春蘭」が昭和15年(1940年)で廃刊となり、「春蘭」の復刊ともいえる「縷紅」が同年創刊され、昭和19年(1944年)、用紙の入手困難のため終刊した。そののち、昭和21年(1946)白水郎の親友であった久保田万太郎が「春燈」を創刊したことを知り、入会する。この時、きくの40歳である。「春燈」には文章も頻繁に発表し、まとめたものを句集よりひと足早く随筆集『古日傘』(昭和34年)として上梓した。『古日傘』の巻頭には万太郎の序句「春ショールはるをうれひてまとひけ里」が置かれる。

この随筆集のなかで、万太郎が登場する一話がある。昭和14年(1939)のできごとというから、同じ「春蘭」のなかの兄妹弟子という関係のなかの思い出として描かれている。

万太郎がお座敷遊びの最中に一句を書き付けた紙片を、隣に座ったきくのに渡した。

秋の夜、と始まるその句に「これ、春の夜ではいけませんか」と言うと、万太郎は言下に「いけない、春の夜じゃいけない」ときつい調子で応えた。紙片をさらにじっと見つめた万太郎は「なつのよ…、ふゆのよ…」とつぶやいたのち、はっきりと「うん、冬の夜がいい」と断言したという。

抒情が勝り春の夜がふさわしいと思ったきくの。

小説家として冬の夜が最適とした万太郎。その句とは

冬の夜の大鼓(かわ)の緒のひざにたれ   万太郎

鮮やかな朱の緒とともに芸の意気まで表しているような演出に、きくのはため息とともに深く納得する。

このほんのわずかなふたりのやりとりのなかに、きくのの抒情と、万太郎の選り抜かれた演出が見てとれる。そして、言外に漂う信頼関係も。

昭和38年(1963)5月6日の万太郎の死は、誤嚥性の窒息という誰もが思いもよらない唐突なものだった。悼句の

薔薇紅き嘆きは人に頒たれず   『冬濤』

には「久保田先生逝く、直前、薔薇を賜ふ」の前書がある。5月に贈られた薔薇の理由ははっきりしないが、きくのが引越したのちの赤坂の屋敷を万太郎に貸していた関係もあり、折々に付き合いはあったようだ。前書の「直前」のひと言に、鮮やかに咲く薔薇を前にただ立ち尽くすきくのがいる。前年2月には「春蘭」時代から先生と慕った岡田八千代、10月には俳句の師であった大場白水郎と続けざまに亡くし、またもや大事な人を失ったのである。

掲句に並べた春の夜3句はすべてお座敷の一件以降の作品である。きくのの春の夜は、相変わらずしっとりと濡れるような抒情に縁取られていた。

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