死者を運ぶ傘 岡野絵里子
九十歳の父親が がくりと顎を落とした時 女たちはベッドを囲
み 息子は離れた壁によりかかっていた 死んだ詩人が名付けた壁
のくぼみに 息子は両手を背中に回し 詩の中の子どものように
明るい空を流れていた
彼にも二人の息子があった 彼らはまだ祖父の死を知らない 若
い頭上にはただ透明な広がりがあるだろう 柔和な思惟の雲が そ
こには浮かんでいるだろう 想像しながら
彼は漂っていた 空の中で死は 掌を走る小さな皺の一つだった
刻まれた皺の深みへ 彼は降りて行った
黒い傘が開いた 死んだ父親がベッドから下りて来た 不自由な
腕と肩で大きな傘を支え 父親はどこかに行こうとしていた 家族
はシーツの上の空間を凝視し続けている 縮んで曲がった背を更に
屈め 死者はゆっくり彼の前を通り過ぎて行った
傘は恐ろしい重量で死者を拉いだ 老いた運び手が喘ぎ 震える
腕を僅かに掲げると 傘はつやつやと輝いた 時間の長い廊下を
傘は王のように運ばれて行った
いや 死者が運ばれて行ったのだ 見慣れた道具の形を借りたも
のの下で 虫のように小さくなり 消えていく父親を 息子は見送
った
雨が降り始めた 雲が長い指で地表に触る親しい時間 指は穏や
かに街路を洗い流す 一日が生まれ変わるまで
雑踏に無数の傘が開く 穏やかな恵みを避ける色とりどりの王た
ち 動かないものが濡れる 樹木と古い夢と
息子も傘をさした 透明な一本を その軽さは彼を地上に結びつ
けた 満ち足りて 彼は歩いて行った