人工湖 郡 宏暢
その本は
これまで一度も開かれたことのないまま
浸み込むような重さで幾万もの文字を湛えてきたのか
窓に翻るトラックのヘッドライトが
本棚に並んだ背表紙をかすめた拍子に
目に止まったのだ
人の数よりも多くの物語の
決壊することも
老いることもできない純潔さ
のようなものがあったとして
そこに指を差し入れるのをためらう私
の
隠微な感覚を
またヘッドライトがかすめて通り過ぎてゆく
人工湖と
海とを隔てる樋堤の上を新しい街道が走り
その街道は我が家の前を通り過ぎ
轟音とともに遠ざかってゆく光の中で
偶然
手に捕られた
それはありふれた話だったのだ
わたしも
わたし以外のわたしも
誰だって他人の書いた物語は読まれることのないまま
蘆の深い水際から
暗い湖底へと
沈められる
沈められることすら記憶されることもなく
物語よりも多くの数の人々の影が
かつてわたしだった影が
光の届かない場所へと
鎮められるのか