台所の五十音図 岡本啓
フカ / カヒ / フカヒ
詩だ。
この一秒一秒も せかいは不可避な詩だ。
フ / フカ / カヒ / フカヒ
あ、あなたがハッすることができないとき
ふいにせかいは詩で豊かだ。 ふと、沸騰する。 どっか高くで
フ / フ / フ / フカ / ヒ / ヒ
わたしの言葉は ありふれた五十音の日本語で
あちこちにあふれてありふれたまま 言葉には
不思議な魔法があって
そう! あなたの名前が呼べる。
聞こえる? / 聞こえなかったとき、せかいは不可避な詩だ。
とっピでも、 意味不明でも
聞いてしまったことは否定できない。
みんな一回は子供だったことと同じ。 否定できない。
そう、大人たちが来た日は、下駄箱には 五十音、
にぎやかな五十音があふれかえって
年子の姉もわたしも不思議だらけで そう
窓枠の結露。 とどかないガスコンロ。 ガスコンロの上では
ホウレン草がふきこぼれようとしていた。
台所の壁には、アヒルも馬もバッタもいる、にぎやかな一枚の
五十音図が貼ってあった。
あ /か /さ /た /な /は /ま /や /ら /わ /ん 。
『ん』のさらに先。
その五十音図の草原には、さらに先に文字たち。 その一つ
『つ』とそっくりだけど小ちゃくて その一つの文字は
『ばった』という三文字の真ん中に跳ねたまま……
『っ』
「姉ちゃん! この字……」
「うん、この字……」
年子の二人は、ハッすることができない。
ハッすることができない。 ハッすることができない。
深い深い緑がふきこぼれていた。
冬の太陽に、春の太陽に、夏の秋の太陽に、 幼い年子に
落書きされ、黄ばみ / 五十音図は剥がされ
日本地図に張り替えられ / 落書きされ、黄ばみ 剥がされ
世界地図に張り替えられ / 落書きされ、黄ばみ 剥がされ
くっきりと痕だけがそこに残って……
五十音図は 五十音の貼りついていなかったせかいは
剥がされ
あなたはそれをすっかり忘れて
ハッすることができなかった、のは / はるか以前のこと。
いいえ、
世界地図のようには このせかいは本当は 色分けなどされていないし
あの文字 / あのひらがなは
この一秒一秒も ハッすることができない。
フカ / カヒ / フカヒ
手のひらには、生きている バッタの死骸の軽い感触。
フカ / カヒ
あ、 あなたがハッすることができないとき
せかいは /不可避な / 詩だ。