サーマルヘッド 沈黙と景色   中村梨々

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【連載第1回】

サーマルヘッド  沈黙と景色   中村梨々

父がもう逝くと言う。そんな急がなくてもいいじゃない、と私が言うと
急いでるように見えるかと唇をうわ向きにとがらせて見せた。病室の午
後は明るく、風に膨らむカーテンも会話の折り返しも、ゆっくりともと
の静寂へ形を整えていく。心臓マッサージは続けられていた。医師の顔
にあせりはなく、もしベットに患者が横になっていなければ、何か重大
な案件について短い文章を繰り返し綴っているような、視力検査で一マ
イル先の手亡一粒を見つけるものであるような表情。私は胸前方で
『「あなたの手のひらに残っているのは最後の一粒ですか」と尋ねたい。』
背の後方では思っている。ずっとずっと先延ばしにすれば二粒めの手亡。
小刻みに揺れる医師の身体がいつまでも終わらず、肩から押し出される
筋肉の動きがリズムカルに1.6拍、指先にそそがれていくのを、どこ
か全く別の場所から収縮と侵食は始まっていて、一本の木のように縛ら
れた足元からは細い枝の先に排出される液体、どくんどくん、血液がめ
ぐって、誰の曠野かわからなくなる。腐った足。
わたしの娘はそこにいるか
父の声がした。いるよと声には出さずに応える。
お前に見せたいものがあったよ。ついておいで。
視線を追って私は病室を出る。
心配そうにそばにいた母のほうを振り返ると、同じ姿勢のまま立ちすく
んでいた。大丈夫、すぐ戻ってくるから。
父はすたすたと歩き始め、そのあとを追うのはきつかった。日ごろの運
動不足を呪った。待って、という言葉を忘れた。言葉とか知らなかった
頃にどんどん巻き戻っていく周囲の景色が珍しくてしょうがなかった。
夜の町に花が咲いていた。原色の大きな花びらが咲くところで、父の後
姿はすぐそばにあるのに、歩行は休みなく、私は花の咲くのを刻々と赤、
緑、青紫、あかみどりあおむらさき、あーるじーびーあーるじーびーあ
イルミネーションは鳥の羽。亜麻草青草青青のグラデーション。真っ暗
な花びら、ひゅるるるるぅ、ひゅるるるるぅ  ぅぱーん。
あれ、花火。
くすってなりながら父のほうを伺う。
父の目が微笑んでいた。笑うたびに若返って、姿勢がよくなる。私は笑
うとしわが増えて、年を取った気分になった。気分でなく本質的問題。
くっくっ、声を堪えるほど若くなったのか。真似、くっくっ くぅ
同じくらい年をやりとりして、私たちは希望の塔のかさぶた。
虫に刺されたわけでもないのに体のあちこちが痒くなる。
右手で左手を
右手で左肩を、左脇を、左腹を
左手で右ほほを
左手で右もも、右ふくらはぎ、腐っていたのは足首から下だったみたい
糊状の根っこ。蜘蛛の巣は3D仕様ブラックホール波打ち際らへんに手
を突っ込んでぐにゆと取り出すとてのひら黒い液状になり、中から小さ
なカードが浮いて出た
『あなたが今落としたのは右手ですかそれとも左手ですか』ぶらん
左の手首から先がごっそりなくなっていた。左手です、と壊れそうにつ
ぶやく。ぱんぱかぱーんと音がして、これは昭和の音、男の子がひとり
現れて、はいどうぞと左手を差し出す。なんか老けたな、手をみながら
思う。男の子は私と手を見比べてにやり。
いるのいらないの?
いります。
近づいた男の子がぎゅゅと私の左手首をつかんだ。肌の柔らかさにごま
かされてはいるが、神経の内側から針が抜けまた刺さる。記憶が順次飛
んで今いるところが皮膚感覚。毛穴つぶされ呼吸が止まる。目ひらける。
頭しびれるさなかを逆流の血液。血に蹴られる。自分に勢い削られてく
 煌々。白い光の中にはいろいろな あーるじーび 詰まっちゃって
―あ あー あたしものもなんてなにもないのに痛みがある どこだー
目を開けると、左手は元に戻っていた。潤いのないしわのある手の甲を
右手でなでるこれが私の手だった。節が土偶の目、昔からの続いてきた
、いのちの途中だ。こんなところに見え隠れして洗ってあげたくなる。
石鹸です。香りですすぐ。夜道では次々に花火があがっていた。父は少
し前を歩いていた。立ち上がり小走りで追いかける、腰骨から引っ張ら
れる背面が町をようやく引っぺがし、木々が増えてきた。砂利は砂に、
裸足にぬくもりが沁み込んでくる。木々はさわさわと音を立てながら、
私たちを住処にしようと迫って来る。のわんと水の潮の匂いがする。父
の浴衣だけが歩いている。裾からの足は砂によく埋もれて、肩幅はあ
る。頭部は、枝の新芽にこんがらがり
とーさんは葉っぱのおばけになったんだね
さっきの男の子の声だ、と思ったとたん、思ったのは自分だったことに
気づく。五月の芽が、緑に埋めよ、と父を守っている。踏み込む砂地が
歩幅に光る。波の音。父が振り返り、私たちは並んで来た道を眺める。
もうすぐだ。
父の声を合図に、山肌の暗い斜面から一斉に光が飛びはじめた。
小さな光は少し揺れながら上昇していく。一息にひゅううと走り去るも
のもあったが、どれもゆるやかな曲線を描いてその軌跡がすぐに消える
ことはなく、異なった地平ではところどころが強く光り
たくさん、数に換算されない、数を知らなければ永遠に、永遠を知らな
ければひとりの夜を無音に走る汽車、海を渡る滑車に鼓膜を乗せて真っ
暗になって、目をつむっていたのと同じ。ただ、父がいることだけは、
わかった。
わたしはたぶん砂に埋もれていくだろう。
からだのなかをさらさらと音がする、さらさという音を聞きながら、父
の左手を握る。私の目から見える360度を父に贈る。
とーさんの360度貸してね
もうすこし待ちなさい
お前の目にもお前を見つけられるときが来る
母さんをひとりにさせてはいけないよ
うん、わかってる、わかるけど、ひとりってどういう意味なのかよくわ
からないことがあるよ。ひとりって、暮らしの上で成り立たない単位、
借りものの匂いひとりって、からだのなかの栓がないってこと、
老衰死する磁場を持たなくなってから夕暮れはオレンジの墓石
これからはオレンジ色に身を伏せていつも初夏だって顔をしてよう
あんた人間でしょ
男の子が笑う
口を空に向け
まだ幼い白い歯が青空にこぼれる花びらのようで

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