サーマルヘッド 自由さと位置 中村梨々
彼女は⒔という数字にこだわった。⒔歳のときに父と別れた、⒔歳の子
供がいたのに離れ離れにならなければ生きていくことができなかった。
⒔と唱えると事態が必ずよい方向に向かった。毎月⒔日に彼女を喜ばせ
る出来事があった。好きなアーティストの⒔番目の曲が彼女を幸せにす
る。⒔枚のクレジットカード、ほとんど使ってない。⒔匹目の猫の名前
がフラウディア。尊敬する詩人の本の⒔ページ目、嘘つきが月をこねる
話。⒔月の誕生日には鳥の羽を一枚リネンの袋に入れる。そうやって集
まった羽毛を掛けて夜は寝ている。⒔本の薔薇の花で母親のお墓を飾る、
家の中に椅子が⒔脚(おもちゃ、それから座らない椅子も含む)めだか
を⒔匹飼っている。住所が〇〇町⒔番地。そういうことと性格とは一切
関係がなかったんだろう、彼女は人の言うことに耳を貸さない。一秒足
りとも貸さない。それを自分に課しているように、蟻一匹も彼女の話し
から逃げ出したりできなかった。きっと蟻もきっちり⒔匹飼っていたの
に違いない。彼女の話は足したり引いたりできなかった。何か違う意見
のようなもの、ただの感想や全く違う話で続きを受け渡そうとするとき、
彼女は一歩前に、この時ばかりはとこちら側に一歩踏み込んで言うのだ。
でもね、わたしはこのほうがいいと思ったのよ。
誰だって、こうしたほうがいいと思って人生を歩いている。時々はそれ
らを交換しながら、やりとりしながら、自分の歩いて行く先を考えてみ
たりする。彼女はそれをひとりでやった。ひとりで事の成り行きを見て
ひとりで事の顛末を知り、ひとりで後片付けをやってのけた。ひとりで
生きていくこともできたかもしれない。それが無理だってことを知った
のは夏の終わりに起きた出来事だった。
彼女はその日、まっさらなワンピースを着て友達に会いに行くところだ
った。たまたま立ち寄った本屋さんで、私はユルスナールの靴を探して
いた。彼女は明るいピンクをよく着ていた。その日もピンクのイレギュ
ラーヘムワンピースを身につけていた。すぐに彼女だとわかったが会っ
て話すこともなかったし、靴も見つからないでいたので、そのまま店を
出ようとしたところ、彼女の声が聞こえて来た。
こんにちは。わたしのことを覚えていますか。
挨拶しようと振り返ると、別の人の声が本棚の向こうから聞こえた。
毎日一緒にいるんだから、そういうのやめようよ。
毎日一緒。彼女、一人暮らしじゃなかったのか。一緒に暮らす親しい人
がいたのかと半分は安心して声のほうへ振り向くと、確かに声がしたと
思った場所に、彼女ひとりしか見当たらなかった。彼女の視線が動いた。
あ、こんにちは。
私は頭を下げた。彼女はいつも見る堂々とした立ち振る舞いではなく、
知らない場所に連れて来られた内気な子どもみたいにおどおどしていた。
今、わたしと話してた人、そっちに行ったの、見てなかった?
私は慌てて本屋さんのドアのほうを見た。誰もいない。返事ができない
でいると、私への興味は失って、彼女は本屋さんのレジにいる若い女の
人に詰め寄った。あなた見たでしょう。たった今までわたしと話してた
背の高い男の人。どこに隠したの。最後の科白は鳴き声が混じっていた。
きゅっきゅっ、
鼻をすする甲高い音が次第に大きくなって、きゅうきゅうと鳴き続けた。
困った店員さんはレジ台にあったファッション雑誌を持ち、ピンクの鳥
を追い払おうとした。鳥は羽ばたきながら嘴を店員に寄せ、時にはつつ
こうとしていたので、私は近づいて、店員さんの雑誌と鳥のあいだに右
手を差し入れた。案の定、鳥は私の手をつつき始めた。細い嘴が肌を刺
すとちいさく身がそがれ、じんわりと赤い点になった。ひとしきり暴れ
ると落ち着いたのか、ききっ、ドアから外へ飛び立ってしまった。
大丈夫ですか。店員さんが私の手を見る。
浅いものは筆記体みたいな線になり
深いものはふくらんで火傷のようにもみえた。
出血したものは幾筋か手首へ垂れ乾き始めていた。
よく来られるんですよ、と店員さん。
いつも同じところで、同じセリフで、時間もだいたいこのくらいで。警
察へも電話したことがあるんですが、飛んで行ってしまうとどうしよう
もなくて、このままなんです。うなずいて相槌を打った。店を出て行く
のも間が悪い気がして、私はユルスナールの靴を頼んだ。店員さんはし
ばらくパソコンで調べていた様子だったが、二週間で届きますとだけ言
った。ここにご住所とお名前をお願いします。差し出された紙に住所を
書こうとして、あれ、住所どこだったっけと思う。が、そんなことが知
られたら恥ずかしいなと思い、何か探すようなふりをして鞄をあけた。
書いたら置いておいてくださいね、と笑顔を残し、彼女はCDの棚を整
理し始めた。住所は、と。鞄のなかに免許証やカードが入っているはず
だった。スマホがあったと、ズボンのポケットを探る。ひらいては見た
が、住所はどこにもない。そういえばもう何年も紙に書くなんてことは
なくなっていた。右手にも、勿論左手にも書いていなかった。体中から
汗が吹き出てきた。ハンカチで手の汗を押さえる。店員さんはまだ仕事
中で、私のことはほっておいてくれていた。右手の傷がどんどん乾く。
夕暮れが近づいている。私は架空の町の名前を紙に書いた。それから番
地を⒔とした。自分でも⒔だけは書きたくなかった。汗で数字がよれた。
ごまかそうと指でこすると⒔-1のような感じになった。入り口のほうを
見て、なんとかあそこから出ていくことはできないかと考えた。誰にも
見つからず風のように、自然に。そう思っていると、汗がすっと引き、
体が軽くなった。羽ばたくようにして扉の外を目指した。店員さんがち
らりとこちらを見た。人間にはつかまりたくない。羽の汚れが気になっ
たけど、このまま、このまま。