北ホテル 渡辺めぐみ
鍵穴の向こうで八ミリビデオが巻き戻されると
明るい日射しが揺れている
何かとても素敵なことが始まる予感
青ざめた身体に
別れではなく出会いが寄せてくる気配
柔軟体操をすると骨がぐーぐー鳴いて
夜には煙が立ち込めていた
けぶっていたのは年長者の煙草だったけれど
もっと大切な
明日への償いだったのかもしれない
昔の旅程のはじに
こじんまりしたそのホテルは
大きな姿見をエントランスに据えて立っていた
翌日空のひどく高いところにアドバルーンが流れ
星を終えたひとのお墓なども
わたしたち一行はその下で巡った
息が白くひとの口からはなれ
ひととひととが確かめ合っていることの
それは針のような物証のようにも思え
息はすぐに外気に溶け
「坂を下りたら上がってください。」
とあのとき道案内の誰かが言ったのだった
「はい。上がります。」とわたしたちは快活に答え
ずっとわたしたちは
坂を上がったり下りたりを繰り返している
わたしたちの誰も子を授からず
けれどノンアルコールの
シンデレラカクテルに浮かんでいた柘榴(ざくろ)の色に
誰の命もともっている
まだ燃えている柘榴
今度は客室のドアをひとりでひらく
少し古めかしい金属の音をさせて
渡辺 めぐみ(わたな べめぐみ)
東京都生まれ。
詩集に『ベイ・アン』(本詩集収録の一篇で第11回詩と思想新人賞)土曜美術社出版販売、
『光の果て』(萩原朔太郎生誕120年記念・前橋文学館賞)、『内在地』(第21回日本詩人クラブ新人賞)、
『ルオーのキリストの涙まで』(第11回日本詩歌句大賞)、『昼の岸』4冊とも思潮社の計5冊がある。
2011年より世田谷文学賞詩部門選考委員。