超戦後俳句史を読む  序説 ―― 『新撰』世代の時代:①     /筑紫磐井

「戦後俳句史を読む」に新しい連載を始めようと思う。わずか3年前に出たばかりの『新撰』『超新撰』『俳コレ』であるが、最新の俳句史はここから始まっていると考えている。実際、30年前には牧羊社の『精鋭句集シリーズ』『処女句集シリーズ』で俳句史は始まっていた。『新撰』世代の歴史が始まるのは当然である。ただそれを歴史として記述する時期が、今が適切であるかどうかであるが、集積がなければ歴史が書けないわけではない。それを書く人間の歴史的意識しだいである。その意味で、あらゆる人に先駆けて『新撰』世代史――「超戦後俳句史」と名付けようと思う――をここに長大な評論として執筆してみたいと思う。とはいえ毎回連続ともいかないので、不連続連載として宣言しておく(相当不連続となる予定)。言っておくがこれは時評ではない、一貫した思想を持つ歴史読みものである。

戦後俳句史と言うこと

戦後俳句史には3つの時代があると思う。かつて、「俳句四季」で戦後俳句の時代区分を述べたことがあるが、ここで再整理して述べてみよう(それを書いたのは「俳句四季」平成22年12月号だが、ここではそれをもっと簡略化して3つの時代に分けて見る)。

①「戦後派」(生年が大正5~15年、青年期を戦後迎えた世代)の時代。「俳句」の昭和31年4月号「戦後新人五〇人集」特集に収録された人たちに代表される。
②「戦後生まれ」の時代。牧羊社『処女句集シリーズ』(昭和59年~平成5年)『精鋭句集シリーズ』(昭和60~61年刊)に収録された人たちに代表される。
③「新撰世代」の時代。『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』(平成21~23年)で登場した新人。

上滑りの世代論の愚かしさは言うまでもないが、しかし一方で世代論を言わないと、世代交代、世代更新が一向進まないと言うより大きなディメリットがあることも考えるべきだ。あえて危険を承知でここでは言ってみることとしたい。

今大半の戦後俳句史研究が行っているものは、第1の戦後俳句史。「円錐」や「豈」が戦後世代特集を組んでいるが、その対象はもっぱらこの「戦後派」世代である。金子兜太、高柳重信、飯田龍太、森澄雄など俳句史的な記述を進めるには最もうってつけの世代である。

第2の戦後俳句史はようやくこれから結実しようとしているがまだまとまった世代詩論は書かれていないのではない。最初のそうした企画は、大井恒行が編集をしていた「俳句空間」の平成5年の終刊号で「現代俳句の可能性」いう特集を行ったのが最初ではないか。攝津幸彦、西川徹郎から始まり田中裕明、岸本尚毅までの18人を選び、各論と総論で宇多喜代子や仁平勝らが論じたことによりやっと展望が見えてきた。その後、小川軽舟の『現代俳句の海図』が出たが、高山れおなからその俳句史の問題について厳しい糾弾が行われている。その意味ではなかなか難しく、後続する試みは行われていない。

第3の戦後俳句史はまだまだ先である。まだ句歴10年にも満たない作家たちを、誰も俳句史の中で位置づけようとはしないからだ。しかしここで戦後俳句史を書く以上、不十分な資料であってもいいから書き始めてみようかと思う。無謀な試みであるが、いつか誰かが書き始めるわけであるから今始まることが絶対に間違っているわけではない。ただし注意が必要なのは、若手作家を時評風に取り上げるのではなく、金子兜太や田中裕明を眺めるのと同じ評論家的視点で眺めてみることが大事だということだ。若手の若さだけを眺めてみてもしょうがない。次代を担う俳人の骨子ができあがっているのかどうか、それに関心がある。それは、反射的に、①②の戦後俳句史の新しい見方の提示の参考になるかもしれない。これを、「超戦後俳句史」と呼んでみよう。


俳コレ
週刊俳句編

執筆者紹介

  • 筑紫磐井(つくし・ばんせい)

1950年、東京生まれ。「豈」発行人。句集に『筑紫磐井集』、評論集に『定型詩学の原理』など。あとのもろもろは省略。

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