練習問題 阪田寛夫
「ぼく」は主語です
「つよい」は述語です
ぼくは つよい
ぼくは すばらしい
そうじゃないからつらい
「ぼく」は主語です
「好き」は述語です
「だれそれ」は補語です
ぼくは だれそれが 好き
ぼくは だれそれを 好き
どの言い方でもかまいません
でもそのひとの名は
言えない
「サッちゃん」 講談社 1977年
「含羞詩集」(河出書房新社 1997年)の詩人である。この詩が現代詩かと問われると、返答に困るところがあるが、思い出したことがあって、書きたくなった。思い出したのは阪田氏の眼である。
「含羞詩集」が刊行された頃だったろうか、私(岡野)の住む浦安市の中央図書館で阪田氏の講演があった。市民一人あたりの図書貸出数が日本一だとかで、読書家なのか、他に娯楽がないのかという住民たちが当日も集まった。阪田氏もやがて集会室に登場されたが、童謡詩人というメルヘンな雰囲気からは遠く、どちらかといえば、世間で苦労している職業の人に見えた。図書館員の若い女性が講師を紹介してくれたが、それによると、阪田氏は前日にも来館したらしい。
「今まで、多くの講師の先生をお迎えいたしましたが、前日に、会場を下見にいらして下さった先生は初めてです!」
聴衆は感心してざわめき、彼女も感激の面持ちであった。当の詩人も照れたように微笑まれた。が、一瞬、眼がぐるるんと不埒な動きをしたのである。
これはもう、絶対にウソである。氏は下見に来たのではなく、講演の日を一日間違えたのだ。土曜日にやって来て、司書の皆さんに「あら、阪田先生。日曜の講演はよろしくお願いします。ところで今日は?」かなんか言われて、気がつき、「いや、前日の同じ時刻に来てみましてね、会場と参加者の感じをつかみたかったんですよ」と、ごまかしたに決まっている。
私は詩人の微妙な瞳の動きに感心した。正直で純粋だが、秘密を持つことのできる眼である。こういう芸当ができてこそ、好きな人の名前を文法の問題にすりかえたりできるのである。そしてそれを一篇の詩に作れたりするのである。
講演の内容では、母子の葛藤の軌跡が印象深かった。阪田氏は、詩の仕事を御母堂に認めてもらいたかった。御母堂が亡くなる前まで、入院されているベッドにも作品を持参して、読んでもらおうとした。氏の作品は平明で誰にもよくわかるし、洒落ていて、味わいも深い優れた詩ばかりだったから、理解されるはずであった。だが、御母堂は、病気の苦しさもあったのかもしれないが、見もせず、原稿用紙を払い落としたのだそうだ。
含羞詩集には、こんな詩行もある。
昔、母の死を描いた小説の受賞が決まった晩
旧友の奥さんから長距離電話が入った
『お母さんが生きておられたら
どんなにお喜びでしたやろう』と
よく考えると母が死ななければ
私はその小説が書けなかった(「祝儀不祝儀」冒頭部分)
子どもが詩人を志して、喜ぶ親はいない。だが、芥川賞の受賞なら喜んだだろうというのである。一読、勘違いの笑い話のようだが、このあたりは苦い味わいがある。生前は書けなかった小説だという事実も、胸が痛い。死がテーマだから、というより、母がテーマだったから、死後はじめてペンが動いたのだろう。
「練習問題」の頃、作者は50歳。「ぼく」が誰であるか、「好きなひと」が誰であるか、聞かれても、きっとあの眼で巧みにはぐらかしていただろう。