日めくり詩歌 自由詩 鈴木一平(2012/12/7)

質素なしあわせ 貞久秀紀

蠅がきている 
とき 
蠅が 
きている気がした 
しっ 
ともいわずにいたが 
とんでいってしまった 
とき 
とんでいってしまった 
気がして 
私はご飯をたべていた 
人生はつかのまである 
とか 
つかのまの 
いくつもの重なりもつかのまにある 
とか 
つかのまにご飯をたべられるしあわせ 
とか 
昼の 
ご飯をたべていると 
ご飯をたべている気がしていた 
蠅がきてから 
とんでゆくまでのあいだ 
それがつかのまか 
永遠か 
どちらかであれその 
あいだ 
蠅がきているな 
ふと 
なつかしみ 
ご飯をたべながら 
歯ぐきに歯のついているのが 
私であれ 
蠅であれさほどかわりはない 
気がしていた

このあいだ、自分は大きな世界を書くことができない人だと思った。そのように言い聞かせているところもあった。とくに気に病んでも仕方のない話だからべつにいいけれど、逆に小さい世界を書く詩を読んでいて、拡大の先にもう一つの大きな世界の隔たりがあるということとはちがう意味で、小さく割っていく、細かく分断していく時に広がってくる時間や空間の大きさというものにおどろかされた。あれはなんだろう。行を改めて、さらに言葉が反復に近い仕方で改める時の小さなズレが、「ぼくは小さい世界を読んでいる」と思わせる感じといえばどうだろう。そのような目配せをしつづける。

足を踏み外せば飽和、さまざまな方向から伸びた線が一点に集中していたような気持ちの先がほどけてしまい、飽きたなあ、と思いかねない分量を逆手にとるのではなくて、受け止める。そのため大きな飛躍によって世界と直に結ばれるような展開を選ばずに、蠅やご飯に関係づけられた「質素なしあわせ」が書かれている。メタ視点みたいなものもある。そういうことを考えているうちに考えていたことが後半で書かれていることに気が付いて、それなら今ここで書いていることの意味が飛んでいくような感じになった。

それでもとりあえず考えてみるけれど、起きたこととそれを知覚するために遅れてしまう感覚のどちらにも属している時間、あるいは視点が詩を統合している。そのような気持ちにさせられる。詩の中でかたちづくられ、他人として動く私が省かれずに書かれている。そういえば、反省ということは省かないということなのだろう。ある詩を運動そのもの、あるいは運動の過ぎ去った後に残る歩行のしるしめいたものにしてしまうものは何だろう(そして、そうでない詩をそうでないものとして知覚させるのは?)。空白から周到にはみ出して、語りがスローな時間の中で上位に繰り出される。量の堆積を退けながら、反復によるゆるさを半ば力に変えて、ここには矮小な世界の強さがあるのだと思う。

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