瞬間的にうれしさはくる近くでも遠くでも雑草が緑だ
五島諭「サウンドトラック」
自分にとって意味のあるものを見つけ出した時、「ある」と思う感情は「美しい」と一つになります。
『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(橋本治、ちくま新書)という本からの引用です。このセンテンスはp174にあるのですが、それが表紙にも引用されています。つまり、同書の中で重要なセンテンスだということです。
まず注目したいのは、「美しさ」ではなく「美しい」であることです。同書の冒頭には、「美しい」である理由が書かれています。
それは私が、「人は個別に“美しい”と思われるものを発見する」と思っているからです。「美しさが分かる」だと、分かるべき対象の価値が、もう固定されているような気がします。
(p8-9)
要するに橋本さんは「作品」主義的な考えとは無縁だということです。「美しい」は橋本さんの定義だと、「感情」ということになります。「美しい」は「対象」ではなく「まなざし」の側に属するとはっきり言っています。
ではその「美しい」とは一体何なのか。p173に端的な文章があります。
「美しい」という感情は、そこにあるものを「ある」と認識させる感情です。
雑草はそこらへんに生えていますが、私たちはそれをみても「雑草がある」とは思いません。大抵の場合、意識は雑草を素通りします。「雑草がうっとうしい」と思うことはあります。けれどこれは「雑草がある」とは決定的に違います。利害がそこに絡んでいるからです。
そこに山がある、そこに雲がある、そこにゴキブリがいる――どれもこれも「人間の都合」とは関係のないものです。自分の都合とは関係のないものに囲まれて人間は生きて、そこで「自分の都合」によって、すべてのものを解釈し直しているだけです。
(p86、 87)
「雑草がある」は利害抜きに「ただ雑草がある」です。「雑草がある」だけであり、それ以外ではありません。
利害とは関係なく「ただ存在しているだけのもの」を見た時、人は「美しい」と感じる。
(p87)
「遠くでも近くでも雑草が緑だ」も「遠くでも近くでも雑草が緑だ」以外ではありません。作中主体は「雑草」という存在のそのありようにふれています。そこから「うれしさ」がやってくる。その「うれしさ」についても「瞬間的にやってくるものである」という発見をしていて、二重の発見の歌なのですが、それは置いておくとして。
けれどこの「うれしさ」は利害の利の方ではないのでしょうか。やはり主体は存在そのものを見ているのではなく、利害を持って雑草を見ていて、その利害の方の利によってそこから「うれしさ」を引き出しているのではないか。これは違います。
●「「雑草がうっとうしい」と思って見る→「うっとうしい雑草」が見える」
は予定調和です。ここには発見がありません。だから「美しい」ではありません。
●「「フェルメールは美しい」と思うから見る→「美しいフェルメール」が見える」
も同じです。これも「美しい」ではありません。
●「フェルメールを見る→「美しいフェルメール」が見える」
は「美しい」です。
●「「フェルメールは美しい」と思うから見る→「(予想以上に)美しいフェルメール」が見える」
も「美しい」です。
作中主体が何を思って雑草を見たのかは分かりませんが、思いがけず「遠くでも近くでも緑だ」という発見をした。そこから「うれしい」がやってきた。この「うれしい」は結果として生じたものであり、あらかじめ「うれしい」を期待していたのではありません。
つまり、「利害とは関係なく」というのは「思いがけず」ということなのです。意図を外れるということであり、思い込みのヴェールが一枚剥がれるというところが重要なのです。要するに「発見」です。
もちろん「発見」なら何でもいいわけではありません。冒頭の引用にある通り、自分にとって意味のあるものを見つけ出した時、「ある」と思う感情は「美しい」と一つに
なるのです。意味のあるものを「発見」しなければなりません。「意味のあるもの」とはどんなものか。
実は表紙に引用されているのは、この一文だけではありません。その後にこう続きます。
「ある」ということに意味があるのは、すなわち「人間関係の芽」です。「美しい」は、「人間関係に由来する感情」で
(以下略)
「人間関係」といっても、必ずしも、人間と人間の関係である必要はありません。
物やペットとの間に「人間関係」は成り立つのかと言えば、十分に成り立ちます。なぜかと言えば、人間は「擬人法」という言葉の表現を持つからです。
(p172)
要するに「人間関係」とは、「親密さ」ということです。その対象物と自己の間に「親密さ」の育まれる土壌が生まれること。これが「人間関係の芽」でしょう。
たとえば私はここ一か月の内に近所で二度道を尋ねられました。一人は山男風の中年男性、もう一人はスイス人の青年です。その人たちは道を尋ねてくるまでは道端にいる「通行人」という「記号」でした。
病院からの帰り道が分からないというおばあちゃんにも途中まで付き添ったことがありますが、向こうから声をかけてくるまでは、やはり「記号」でした。
一期一会のコミュニケーションに過ぎず、そんなに深い話をするわけでもありません。道案内の一人目の中年男性とは、ほんの二言三言のやりとりしかしていません。けれど本来なら一人で道を歩いているシチュエーションで、人と会話をして笑顔(よそ行きの作り物だとしても)を浮かべる機会などありません。はなはだ失礼な話ですが、「記号」でしかない人に、口をきくことなどそうありません。せいぜい、ぶつかって「すみません」と言うくらいです。それは日常からすると希少な経験であり、小さな非日常とも言えます。その人と別れた後も、少し心が浮き立った状態が続きました。
ESTA(電子渡航認証システム)のトラブルでアメリカ行きの飛行機に乗れなかった時も、同じ境遇のひとと親しくなりました。アメリカ経由でメキシコに行く予定だったのですが、予定通りの日程で到着できないどころか、航空券の性質上、トランジットが不可能になる可能性もあり、非常に不安な状態でした。その時、この人の存在は相当な救いとなりました。
もっとプライベートな例を持ち出すなら、親交を深めた友人と恋仲に発展した時のことです。恥ずかしい話になりますが、手をつなぐことから私たちの関係ははじまりました。手をつないだ瞬間二人の間に流れる空気が変容し、一緒に星のきれいな土手の石段にすわった時、相手が身を寄せてきた時のことを覚えています。
「人間関係の芽」というのは「関係の移行」です。「記号」から「人間」へ、「友人」から「恋人」へ。そしてその「移行」にともなう「混乱」でしょう。
「記号」は「記号」ですが、「少しだけ話した人」も「少しだけ話した人」という「記号」です。「友人」も「記号」なら、「恋人」も「記号」です。けれどある「記号」から別の「記号」へ「移行」する時、「移行」のもたらす「混乱」が、「記号」のその背後にある「存在」を垣間見せるのではないでしょうか。
「美しい」はその瞬間に立ち現われる「感情」なのでしょう。道案内を終えて別れた後の世界は、いつもより少し美しかったのを覚えています(それをその時の私が「美しい」という言葉で形容したかは覚えていませんが)。少しのことだから、少しだけ「美しい」のです。
ちなみに、「記号」「少しだけ話した人」「友人」「恋人」という「記号」は、どれも質的に異なる「記号」ではありません。どれも「人間」というものを表す「記号」であり、その差異は量的なものです。
たとえば「山田君」という「記号」があります。「山田君」と飲みに行きます。その場面で「山田君」の身の上話を聞きます。そのことで「山田君」への見方が変われば、それは「関係の移行」です。
「関係の移行」を経ても「山田君」(A)は「山田君」(B)という「記号」です。けれどAとBは全く異なる「記号」であり「関係」です。「身の上話」という情報が「発見」され、それが加わることで「記号」に決定的な量的変化が生じているからです(決定的な量的変化を質的変化と呼ぶのであれば、それは確かに質的変化です)。
「雑草」という記号は、「遠くでも近くでも雑草が緑だ」という「発見」を経て、その「発見」を情報として加えた「雑草」になります。「雑草」は「雑草」であることに変わりないのですが、主体の中での「雑草」の見方は確実に変化しています。これは「関係の移行」でもあります。主体の「雑草」の捉え方が変われば、「雑草」への関わり方は(実際的にでなくとも、潜在的に)変わらざるを得ないでしょうから。
「人間関係の芽」「擬人法」というのはこういうことでしょう。
さて、恋をすると世界が明るくなります。
世界には「現象」しかなく、「立ち現われ」しかありません。「見える」も「きこえる」も「思う」も「考える」も「立ち現われ」です。「歯磨きしたいと思う」も「歯磨きをしなければ」という衝動が「立ち現われ」、その衝動を受けるかたちで「歯磨きしたいと思う」が「立ち現われ」ます。すべては一元化されています。
「美しい」も「立ち現われ」です。だから何が「美しい」かと言えば、「世界が美しい」としか言いようがありません。はじめから美しいのだこの手からこぼれていったポップコーンも
(五島諭「サウンドトラック」)が「ポップコーンが美しい」のはずなのに、「ポップコーンも美しい」なのはこのためです。
もちろん予定調和を脱した「ポップコーンは美しい」から論理的に導き出した「すべては美しい」という観念があるから「ポップコーンも美しい」なのですが、この観念の背後から支えるのは、「美しい」が「立ち現われ」る=「世界が美しい」だからです。
「ポップコーンが美しい」は、この一元的な見方しかない状況では、「世界が美しい」と同一です。
もちろん人の認知機能はこの一元的な見方を分節し、「まなざし」と「対象」を作ります。「世界」は背景です。背景として捨象されますから、「美しい」は「「対象」か「まなざし」のどちらかに起こるんでしょうね、きっと。でも別に敢えて問わなくてもいいよね」ということになります。
けれど「美しい」は「関係の移行」に由来して起こります。そこには「混乱」が生じています。「混乱」というのは認知機能の「混乱」に他なりませんから、この時に一元的な見方が一時的に復権します。
だから「美しい」と思っている時は、「世界が美しい」なのです。
それは一時的なものに過ぎず、認知機能はまた「世界」を「まなざし」と「対象」に解体します。
「美しい」は登山の頂上のようなもので、たどり着いてしまったらまた下山して日常に戻るしかない。それは一つの「終わり」であって、「批評」はそれを終わらせるものです。
たとえばそれは愛の告白の言葉、「好き」に似ているかも知れません。
「好き」という状態があり、その状態をメタ的に把握して「私があなたを好き」と伝える。「世界が好き」だった状態を、「まなざし」と「対象」に分離させ、関係をはっきりさせる。「関係の移行」を完了するということです。
「美しい」も「好き」も「過渡期」なのです。だからとても不安定な状態で、片思いが苦しいのも先ほどの一元的な見方で行くと、「世界がこんなにも美しくて困っているから、どうにかそれを抑えたい」なのでしょう。この見方では実用的でないから「あの人が振り向いてくれないから苦しい」に変換され、解決法として「批評」=「告白」が起こるというわけです。
そして「批評」は「美しい」を「美しさ」に変えると思うのですが、これについては次回かあるいはまた別の機会に。