雨の中の馬(雨中的馬) 陳東東 財部鳥子 訳
暗闇で何げなく手にした楽器 暗闇にじっと坐っていると
馬の嘶きがはるか遠くから聞こえてくる
雨の中の馬
この楽器は旧い
馬の鼻にある紅いそばかすのように 点々ときらめく
樹のてっぺんのように きらめく
初めて開いた木蓮の花 驚いた幾羽かの渡り鳥
雨の中の馬もぼくの記憶の中から走り出ることに決まっていた
手にある楽器のように
廊下の行きどまりに
ぼくはじっと坐る 一日中降った雨のようなようすで
ぼくはじっと坐る 一晩中開いていた花のようなようすで
雨の中の馬 雨の中の馬もぼくの記憶の中から走り出ることに決まっていた
ぼくは楽器を持って
何げなく弾き出した 歌いたいうたを
「雨の中の馬」 あーとらんど 1998年
演奏が始まる前とは、どんな時間だろう。鳴り出す前の楽器はどんな存在だろう。一曲の楽曲が奏でられるより早く、実は始まっている音楽がある。
上海の詩人陳東東は、それを「雨の中の馬」と表現して、私たちを感嘆させる。
「ぼく」は楽器を見つけるけれど、すぐには弾き出さない。そのまま暗がりにじっと坐る。待っているのだ。やがて、何かが遠くからやって来る。雨の中の馬だ。馬の近づく気配で、古い楽器がきらきらと輝き出す。周囲が明るんで、頂きをきらめかせる樹々、木蓮の花が初めて開く瞬間、花のわずかな動きに驚く鳥が見える。
そして、じっと坐っている「ぼく」もまた「一日中降った雨」のようで、「一晩中開いていた花のよう」だという。自分を無にし、耳だけを澄ませて待つ時、人も雨や花になるのかもしれない。
とうとう、馬が「ぼく」に触れる。木蓮の花や渡り鳥が「ぼく」に触れたのと同じに。静かに、でも力強く体の中に湧いてくるものがある。それが歌だ。
「ぼく」は楽器を弾き出す。何げなく、何もなかったかのように。
中国では、「歌いたいうた」を歌うことが困難な時代があった。抒情詩を書くこと自体、政府の干渉を受けることだった。作者は詩人の証として抒情詩を書き、最後に「何げなく」人生を賭けた宣言を入れた。でもその一行は、詩を損なってはいない。そこがすごい。
財部鳥子の日本語訳も素晴らしい。他の訳者の作品を読んで、その粗悪さに腹を立てたことがあったが、財部訳は名訳だと思う。