日めくり詩歌 自由詩 渡辺玄英 (2011/7/26)

所在図 柴田基孝

「イー・ジー・ジー」
「卵」
単語カードを手にした中学生が
電車のつり革にぶらさがって
なんべんも暗唱をしている
 
「イー・ジー・ジー」
「エッグ」
「卵」
わたしは今夜必要あって
書類に
わたしの家の所在図を書きこまなければならない
イージーな瓦ぶきの卵に たいへん
似てきたわたしの家
近くの目じるしは
影の長いバス停と
甲殻類の粉末を売っている薬局
 
けさ読んだ本に
ダマスカスの町のバス停で物乞いをする小児
五キルシュを手にすると
近くの薬局に走りこみ
金をはたいて体重をはかる
これを目撃したカナファーニーは
ついに作家となったというのがあった
薬局の前を通るとき
体重が青さを増してむずむずする
体重をはかることは 所詮
じぶんのなかに詰まった
影の重さをはかることでしかないのに
 
今夜
歯肉の厚い所在図を書きあげたら
空を消して
わたしは暗い擬卵を抱いて眠る
(卵の中味は腐った巨大な義歯)

詩集『無限氏』より


 クリエイティブな想像力と深い洞察力を持つ人間が通俗的な世間を生きていくとき、そこにはどのような葛藤が生じるだろうか。柴田基孝さんの作品を読んでいるとそんなことを考えてしまう。

 なにげないありふれた日常の風景から始まり、eggという英単語から連鎖する想像が次第に異様さを増していく。卵は「殻」を持ち、内部に何かを秘めている。卵に「似てきたわたしの家」の近くには、やはり卵の連想からか、「甲殻類の粉末を売っている薬局」が登場する。

次に、物乞いの小児が体重を計る不可解なエピソードが思い出され、自分の中の「影の重さ」へ言及される。この三連目は重要で、カナファーニーを作家へと導いた物乞いの小児の不条理不可解な行為こそが、人の内部に詰まった「影」のことだと考えていいだろう。そしてむろん、この詩の作者も「影の重さ」を見つめずにはおれないのだ。かれもあの小児やカナファーニーと同様に不条理不可解に呪われた存在だと言える。

 だから、一見唐突にも感じられる最終連が、悪夢の鮮やかさを獲得する。「歯肉」の厭らしく生々しいイメージ、「擬卵」という贋物、その卵の中の「腐った巨大な義歯」の気味の悪い不可解なイメージ。おそらくこうした暗い感情は、「書類に/家の所在図」を書きこむ行為に象徴されるような通俗的世間で生きていく嫌悪のなかで醸成されていくのだ。そこで抱え込まざるを得なかった不気味なビジョンが読者に迫って来る。

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