日めくり詩歌 自由詩 山田亮太 (2011/1/11)

野良犬と 大高久志

日が暮れて
木枯らしが吹いていた
街頭で
若者が声を挙げた
皆さん
この国は
これでいいんですか
肩をすぼめ
人は歩いて行く
皆さん
一緒に
この国を変えましょう
ズボンのポケットに
両手を突っ込み
道端で眺めていた
ふと
足もとを見た
野良犬が
黙って見上げていた
片手を出し
頭を撫でてやる
若者が声を挙げた
この国は
変わらなければ
そうでしょう皆さん
顔を伏せ
人は歩いてく
これでいいのか
若者が叫んだ
野良犬が
お座りし
若者を見上げた
日が暮れて
木枯らしが吹いていた
これでいいのか
若者が叫んだ
野良犬の
頭を撫でながら
道端で眺めていた

(書肆山田『空に映す』所収、2011年12月)


大高久志さんの第1詩集「空に映す」には47篇の短い詩が収められています。
いずれの詩も非常に短い一行が空白の行を挟むことなくひとつながりに連なったシンプルな形式をとっています。

素っ気ない文体で日常生活の中のあるシーンが切り取られたといった印象の詩篇が並びます。

一見すると、生活に根ざした素朴な詩であると受け取れるかもしれません。

率直に言って、私はこういったタイプの詩が苦手です。

にもかかわらず、私はこの詩集をたいへん興味深く読み進め、読み終えた時、感動すらしました。

なぜでしょうか。

それは、この詩集の中の言葉が何も主張しないからであると思います。

書き手が見たもの、聞いた言葉、とった行動が、必要最小限の言葉で、なおかつできるだけ誤解のないように正確に記述されていく。

何か気の利いた感慨をもらすこともなければ、特別な意見を述べたりもしない。

ここに紹介した一篇には、街頭で声を挙げる若者、顔を伏せて歩く人々、それらを眺めている「私」、「私」の足元にいる野良犬が描かれています。

そしてただそれだけの詩です。

ここでもし「私」の思ったことがわずかでも記述されてしまったとしたら、途端にこの詩の魅力が損なわれてしまうでしょう。

少なくない詩の書き手が「私だけが言えること」「私こそが言うべきこと」を言おうとして、結局は全員同じことを言ってしまう中で、「何も言わない」という態度をとりつづけること。
一切の装飾を排した極度に短い詩行は、そのような意思の結果であるのかもしれません。

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