六十番 枕辺
左勝
水流に水の音淡し千年の枕邊 研生英午
右
枕辺に泉ではなく邯鄲 中村光三郎
「枕辺 まくらべ」は語義としては枕元というに過ぎないが、「枕を交わす」といえば男女の情交を意味するように、枕の語の豊かなコノテーションの内にあって、同様に気だるくも艶かしいニュアンスを帯びた言葉であろう。例えば、式子内親王の
かへり来ぬむかしを今とおもひ寝の夢の枕に匂ふたちばな
という歌を、掲出両句の横に置いてもよいわけである。この歌は、夏の夜、昔の恋人を思って輾転反側する佳人を思い浮かべればよいのだろうが、特に左句の場合、「千年の枕邊」という詩句は、「千代もと契る」といった和歌の定型的な言い回しや、「かくて千とせを過ぐるわざもがな」(源氏物語 御法)、「天長地久 時有りて尽きんも、此の恨みは綿綿として尽くる期無し」(長恨歌)といった、千年の愛を願いながらそれを果たせない男女の恨みの物語に通じるものがある。さらに配するに水のイメージを以ってしているのだから、一句の志向は明らかだろう。ただ、「水流に水の音淡し」という表現はどうもこなれが悪く、その点は残念なのだが。
これに比べると右句には男女の交情を匂わせる要素はやや弱いというか、むしろ「泉ではなく邯鄲」という翻し方は、男女のことを一瞬ほのめかしながら、そこから離れた安らぎを呈示している感じもする。泉ではなく、泉のように静かに湧きつぐ邯鄲の声に心と体が包まれてゆくのである。ただ、五七四の字足らずの韻律は、そのような一句の着地点とは齟齬をきたしているのではあるまいか。左句も破調で、「水の音」をミズノネと読むとして五七九の四音の字余りとなるが、これは気にならない。古来、字余りの名句は多数あるが、字足らずの名句というのはないのである(自由律の短律はもちろん別の話)。
左右両句とも表現として完璧ではないものの、「千年の枕邊」というフレーズには疵をカヴァーするだけの抗し難い魅力があろう。左勝ち。
季語 左=無季/右=邯鄲(秋)
作者紹介
- 研生英午(みがき・えいご)
一九五六年生まれ。掲句は、句集『水の痕』(沖積舎 一九九〇年)より。
- 中村光三郎(なかむら・こうざぶろう)
一九四五年生まれ。掲句は、句集『春の距離』(らんの会 二〇一一年)より。