九十二番 必死
左持
蚊遣香必死が能の男女なりし 堀井春一郎
右
天を發つはじめの雪の群必死 大原テルカズ
ついうっかりといった感じで書架から引き出した堀井春一郎の『曳白』を読みはじめたら、面白くて止まらなくなった。同書は堀井に心酔する齋藤慎爾が、一九七一年に自分の深夜叢書社から出した選句集で、『教師』『修羅』の二句集からの抄録に、それ以後の「離騒」の章を加えたもの。“曳白”とは白紙答案のことである。二千余句から七百数十句を精選した一集を白紙答案と呼んでみせるあたりが時代の気分なのだろうが、こういう気取り方さえも忘れてしまってなんの詩よ俳句よ、と憎まれ口のひとつも叩きたくなるわけである。
左句は一九五七、八年の句からなる『修羅』抄のうちの一句。堀井のいわゆる情痴俳句の一つに数えられる作である。上村一夫の『同棲時代』の連載開始が一九七二年で、かぐや姫の「神田川」が一九七三年。どうかするとそうした一九七〇年代の雰囲気に引きつけて読んでしまいそうになるが、いま記したようにこれは六〇年安保以前の作で、作者は娼婦と駆け落ちした元教師。「必死が能の男女」という身も蓋もない突き放し方は、七〇年代の学生文化の感傷性とはまた少し違った態のものと思われる。また、つくづく思うのは、この「蚊遣香」のなまなましい実在感。加えて、凡手なら「男女かな」などとしかねない下五を、字余りにして静かに着地させるなど、芸の細かいところも見落としてはなるまい。
左句の「必死」から思い出したのが右句。塚本邦雄が『百句燦燦』で、
「雪」の「必死」も亦作者の強引な修辞力で生きる。擬人化の嫌味を毫も感じさせぬのは彼もまた表現に賭けて必死であつたからだらう。
と述べているように、気迫で成り立たせた擬人法が見どころ。「はじめの雪」は初雪のことではあるまいとの清水哲男の指摘も念頭に置いておきたい(「新増殖する俳句歳時記」)。山口誓子の
海に出て木枯帰るところなし
もまた擬人法の名句でかつ特攻隊の寓意なのだそうだが、右句の「雪の群」からも急降下爆撃の編隊なんかをイメージできなくもない。できなくもないが、「天を發つはじめの雪の群」という表現は、よくよく検討すれば純粋に客観的な記述であり、誓子の「帰るところなし」の純主観的表現とは性質を異にしていることがわかる。すなわち右句の雪はどこまでも自然現象の雪であり、何かの比喩ではない。しかし、それならばこの「必死」さとはなんだ、ということになる。「必死」さは人間にとってある意味を形成しているが、過程だけがあって意味が無いのが自然現象であろう。どこまでも行き違うはずの両者を俳句形式の中でドッキングさせたのが塚本が言う「作者の強引な修辞力」であり、その齟齬をはらんだポエジーこそが、右句の奇怪な魅力の芯にあるものなのだ。
両句の「必死」、ただただ拳拳服膺すべきものと思うものから持。
季語 左=蚊遣香(夏)/右=雪(冬)
作者紹介
- 堀井春一郎(ほりい・しゅんいちろう)
一九二七年生、一九七六年没。山口誓子に師事。「天狼」同人。
- 大原テルカズ(おおはら・てるかず)
一九二七年生、一九九五年没。「芝火」主宰の大野我羊に師事。「俳句評論」同人。掲句は句集『黒い星』(一九五九年 芝火社)所収。