狂犬が常に何かに吠えているブログ見ており、見世物として
薄くそして鈍き刃のごとくして聴こえ来るなり『ホフマンの舟歌』
ライブドア事件報道
情報の情とは何ぞ 水に落ちし犬いっせいに撲られており
生沼義朗『関係について』(北冬舎)
現実というものは、なかなか容赦がない。一個人の生活史の中の出来事でも、世の中全体の景気の動向や、社会的な環境のあり方でも、思い通りにならない事象が、後から後からあらわれて、その苦さにただもう耐えているしかないというような、そういう時というのは、ある。生沼義朗の今度の歌集は、そういう部分で共感される要素を多く含んでいる歌集と言ってよいだろう。
一九七五(昭和五〇)年生まれ。これが第二歌集である。中澤系の五歳年下。この年代の若手歌人の中では、もっとも現代短歌の動向に通じている一人であろう。前衛短歌から今の学生歌人まで、一通り目を通していて、新しいものの出現に敏感である。でも、作品には浮ついたところがなくて、掲出歌をみればわかるように、むしろオーソドックスな短歌の形を守っている。今度の歌集には、青年の域を脱しつつある作者らしい、生活の歌が見える。それが私には、とても魅力的に感じられた。
要はつまり肩書きのあるその日暮らし、自分で会社を営むことは
午睡することもそれよりも覚めるのもさみしき、日曜日の仕事場に
ようやくに味覚戻れど年跨ぐストレスにまた舌先は
国家にはつねに関心あるもののヒューマニズムに興味はあらず
一冊を読んでいると、コミケとのかかわりについての説明や、友人の結婚式に出席する歌の一連など、多少作者の私生活の内容を語ることに傾きすぎた作品が目に付いた。私は、作者の私生活の個人的な内容、のようなものには興味がない。けれども、作者が見ているものの細部をどうとらえているかには、興味がある。上に引いたような歌が、今度の歌集にはたくさんあって、それは単に私生活の一面をとらえて嘆いたというだけの性格のものではないと思った。底に流れる憂愁が、現代日本人の多くの心に響くところを持っているのである。