前回紹介した「葉紀甫」ほどではないが、「山口哲夫」も知られざる詩人になってしったのだろうか。いま山口の作品を体系的に読むことは、ネットも含めてほぼできない。残念でならない。
山口哲夫は一九四六(昭和二一)年、戦争直後に生まれている。そのため、山口の詩には微妙な戦争の影が射している。そのことは後で述べる。七〇(昭和四五)年、現代詩手帖賞を受賞し、華々しくデビューしている。その後、帷子耀ら当時活躍してた若手の詩人たちと、詩誌「騒騒」を創刊し、さらにその後は、稲川方人や平井隆等の、詩誌「書記」の寄稿者になっている。まさに、詩の最前線に立っていたのだ。しかし、詩集は少ない。生前の刊行は、手帖賞受賞直後の、七一年の『童顔』(書肆山田)と、七六年の『妖雪譜』(書記書林)の二冊だけである。手帖賞受賞から亡くなるまでは一九年あり、かなり寡作くといえる。特に、『妖雪譜』刊行以降は、未完詩篇「妖雪譜Ⅱ」を含む『山口哲夫詩集』が、思潮社から刊行されているが、新しい詩集はない。さらに、八八年に四一歳で亡くなり、加えて全詩集が刊行された出版社が倒産。現在、図書館で借りるか古本で買うかしないと、読めない詩人になっている。とはいえ、作品は今読んでも古びない。『妖雪譜』に収録された、代表作の「月潟のニジンスキー」から引用する。
※
なかきよのつきかたにうかむししかしらにしのかたより
もれくるひかり。
※
ニジンスキー。六文字の指令よ。わたしは神である。月
のかたちの神である。とその手記は冬の空とともに閉ざ
される。サンモリッツ村ガーダムント別荘にて。一九一
九年二月二十七日。
詩はこのような「※」で切られた、散文の断片で構成されている。『妖雪譜』の詩は主に、複数の時間を重ねた散文が多い。この詩も山口の故郷である新潟の情景、特に獅子舞と、ニジンスキーの時間の情景が交差している。書き出しは、「にごり水は去った。」という、日常でもあり幻想でもあるような、あわいの声によって書き始められる。それは同時代の荒川や稲川、平井での仕事との共通点もあるが、そのなかでも特に、不思議に生々しい身体が現れているのが特長だ。引用部分でも分かるが、リズムも定型に近い部分と、それが壊れていく部分との、巧みな往還によって成り立つ。結びは、「月潟よ。雪も舞わぬ月潟村よ。」である。書き出しもそうだが、このどこから来たのかわからない、言い切りの声が山口の詩の特徴だ。
あるいは別の作品、「きれいな海」からの引用
水は軒下にまでとどいている。洋食若松食堂の玄関前の
鉢植えが〈和可ま〉ののれんあたりで水生生物のように
プッカリ浮いている。(以下略)
実に不思議な光景だ。描かれているのは、やはり新潟の雪解け水による洪水なのだろうが、妙にリアルであるのともに、どこか幻想的な、宇宙空間に浮かんだような無重力の感覚もある。この詩で目立つのは、しかりとした描写である。ただ「水生生物のような」という巧みな比喩と、定型の律に近づきつつ、また壊れていくリズムによる、切断により、散文から離れていく。それらが、企むというよりも、言葉の動きの自然の発露のように、緩やかに流れているのが魅力だ。それは冬に閉ざされていたものが、それこそ雪解けによって、放たれていくような何ともいえない感触だ。と同時に、戦争時のような何もかも崩壊する、カタストロフもある。まさに、幼時から少年期の敗戦直後の混乱期が、反映している。
私の少ない読書経験だが、このような詩を他に読んだことはない。重ね重ね詩の早い詩が惜しまれる詩人だ。