好きな詩人について書けということらしい。どうやら私の溶けかかっている脳ミソでは難しいことは書けはしないので、とりあえず好きな詩人の思い出ということでお茶を濁そうか。
この夏の早朝 突然
エンジンふかし おれは
西船橋へ向かって疾りだす
ニシ!フナ!バシ!
引用したのは八木忠栄の「西船橋へ!」の冒頭部分である。私が、この感嘆符に目を奪われる詩句に出会ったのは二十代の最初の頃、ゴミ袋だけの東京の果てのボロアパートで、その日暮らしのくだらない日々を糞が流れるように送っていたときである。友人もあまりおらず無為をそのまま飲み込んで毎日、ブラブラしていた私は何気なく入った古本屋で手にした茶色の汚い詩集でこの詩句に出会った。私はすぐに冒頭からファンキーに行を疾走しゆく八木忠栄の詩に痺れてしまい、その日の晩飯も困る身銭を切って、この詩集を買い求めた。以来、この署名入りの初期から中期までの作品を網羅した茶色い汚い「八木忠栄詩集」を二十代の終わりに差し掛かった今でも、売り払いもせずに手元にある数少ない詩集である。この詩集を問題の多かった私はトラブルを起こすたびに自らを慰めるようにひらいた。死ぬほど愛していたつもりだった女を寝取られて死ぬほど飲酒して交番で過ごした日、ボロアパートさえ追い出されて健康ランドで明かした日、新宿で腕の太いそっちの人に尻を撫でられた日・・・、センチメンタルな言い方になってしまうが思いっきり死のうと馳せたとき、そして生きようと馳せたとき必ずこの詩集があったように思う。
スカートは勃起せよ!タイプライターは勃起せよ!カレンダーは勃起せよ!オンザロックは勃起せよ!全野菜は勃起せよ!地図は勃起せよ!・・・・・
兎にも角にも八木忠栄という詩人を考えるとき私にとって重要な作品であるのが上記した「西船橋へ!」である。八木忠栄の極々、最近の俳諧に寄った作品にでさえ言えることであるが、ビートジェネレーションの詩人を彷彿させる口泡飛ばすようなファンキーな饒舌体、がこれでもかと捲くし立てる「西船橋へ!」である。内容はさておき、六十年代の狂騒(私は映像や書籍でしか知らないが)の時代を感じさせる砂埃舞う、その息継ぎなんてしているヒマはねえとでも言うような、そのやぶれかぶれの任気みたいなものが、十年代の初頭を生きている私にも、ただ単純にカッコ良いと思える。こんな詩を書きたいと思った。が、筆を取れば、ファンキーな饒舌体とは程遠く未だに舌足らずな屑詩しか書けない私である。それだけ私には八木忠栄の疾走する作品群は魅力的だった。
海から帰還する少女たちの緑いろに焼けたおなかを
さびしい唇がやさしく包んであげるだろう
きわめて個人的な夏でしかない いつも
個人的な 熱い房総だ
なんという・・・・・・・
なんという西船橋だ!
好きな詩人をということであったが、私にとって八木忠栄は好きという言葉では少々、生易しいほどに心酔した詩人であった。これからも私のような者は人生を踏み外しては落下するように生きていくんだろう。しかし、「勃起せよ!」である。何が言いたいかって?その通りである。「勃起せよ!」