左川ちか。彼女の詩を読むとき、頭のなかを掠めてゆくものを列挙する。緑の電流、紙ぺらで出来たジェントルマンたち、恐ろしく無機質な四角い街、月のような顔の女、・・・人々はあやしい光の下に照らされ、肉体は月のようである。陰が冴え返り、白のなかにまたたくまに青ざめて食われ、暗い海を捨てられて漂う。
そんな映像が作り出される。彼女の詩は、観念や感情をひとつ遠ざけた、映像であると思う。精神世界の風景という風には言い切れなくて、精神によって肉付けされた言語による映像作品だと思う。
左川ちかの詩を初めて知ったのは、現代詩を知ったばかりの頃で、ちょうど初めて手にとった「現代詩手帖」の、水田宗子さんの記事にて抜き出されていた彼女の詩を読んだ。幾編かの、次のような部分に特にぞっとした。
アスパラガスの茂みが
午後のよごれた太陽の中へ飛びこむ
硝子で切り取られる茎
青い皿が窓を流れる(「他の一つのもの」より)
硝子は女のやうに青ざめる。夜は完全にひろがつた。
乗合自動車は焔をのせて公園を横切る。(「黒い空気」より)
夜更になると鋪道は干あがつて鉛を流したやうに粗雑で至るところに青い痰が吐きつけられてゐる。その生々しいかたまりが、私に人間の腐つた汚れた内臓の露出された花のやうな部分を想像させ、不気味な気持にかりたてられる。(中略)誰も見てゐるわけではないのに裸になつてゐるやうに私は身慄ひする。
(「夜の散歩」より)
左川ちかが本当に若くして病で夭折したことや、生まれた頃より虚弱で、その短い生涯のうちに死の予感がずっとあったことは、きっとこの詩人を読むときに必ずといっていいほど意識することなのだろうが、いっそそのようなことまで詩のなかのフィクションにしてしまいたい気がする。なんと気味悪くそそりたつアスパラガスだろう。飴色に濁った陽だろう。窓をあけるとまだ狂気の空だ。何のメタファーでもあるまい。乗合自動車にのりこむ焔のなんと黙っていることだろう。ことに、腐った内臓の毒花と、「誰も見てゐるわえではないのに裸になつてゐるやう」だというあの名状しがたい、不安とも予感ともいえない感じの表現は、ずっと反復していると、呼吸が苦しくなってくるようにさえ思う。左川ちかの詩は、詩人の恐ろしく鋭敏な感受性に加えて、その語の配置は月面のように冷え、非常にダンディーである。
左川ちかに出会う直前、詩人のN氏にすすめられて、エミリ・ディキンソンの訳詩を読んでいた。十九、二十歳の頃、いまよりずっと世界が閉ざされていた頃に、似ていて、すこし異なる死のにおいがする二人の詩人の詩を読んだ。どちらもわたしの好きな詩人である。(虚弱であることもフィクションにしてしまいたいなどと言っておきながら、何だけれども、)わたしは彼女とは違い、人一倍に健康だし、夭折なんてこともそうありそうにないが、身一つで世界を感受することや、言葉だけで立つという姿勢に、いつも奮い立たされている気がする。