かれこれ七、八年前から、ヨシフ・ブロツキイの詩を翻訳している。その橋渡しをしてくれたのは小さな本である。
ある日、私は書店の片隅で大変小さな本を見つけた。掌ぐらいの大きさである。よく見なければ気がつかない棚の隅っこにあった。本を手にして著者の名前、ヨシフ・ブロツキイを見つけ、あの『ローマ悲歌』の作者だとすぐ理解した。そして、その小さな本が彼のノーベル文学賞受賞記念講演『私人』だとわかった。『私人』は特別に力強く、彼にしか語れない言葉に満ちていた。私はブロツキイの詩集を読みはじめた。
ヨシフ・ブロツキイは一九四〇年、ロシアのサンクトペテルブルグでロシア系ユダヤ人の家系に生まれる。十代の終わりごろから詩を書き始める。独学でポーランド語や英語を学び、それらをとおしてヨーロッパの詩を読みはじめる。二十三歳のときに、徒食者として逮捕され、裁判にかけられる。そして一年半余り流刑に処せられる。三十二歳、余儀なくしてアメリカへ亡命し、教職につく。一九八七年、四十七歳、ノーベル文学賞を受賞する。また一九九二年と九三年にはアメリカ合衆国の桂冠詩人をつとめる。五十五歳のときに持病の心臓病で亡くなる。
短く激しい人生だが、これでわかるようにブロツキイは亡命詩人である。しかし、アメリカへ渡っても、詩はロシア語で書いた。一方、エッセイや評論は英語で書いた。詩については、母国語ということの上に、ロシア語の陰翳に満ちた、海の底からとどろくような深い響きを大事にした。従って、多くの人に読まれたのは翻訳された詩である。その翻訳は、初期は翻訳者の手に委ねられていた。すぐにブロツキイ自身も参加するようになり、さらにはひとりで翻訳するようになった。また、晩年には最初から英語で書くこともあった。
ブロツキイは古典的形式を重んじた。ほとんどの詩篇は押韻されている。ロシア語の詩はもちろん英語の詩でも同じである。詩作に当たり、より厳しい道を選んだ、と自ら語っている。またそのことは、ギリシャ神話、古典文学、歴史に共通するテーマに出会い、それらを共有し、そこから由来する詩篇を多く書くことにつながっていく。こうして彼の詩は、古典的なものと現代的なものが背中合わせに在るような最も強く補強された構造で、独自の道を切り開いていった。
代表的な詩集には『品詞』『ウーラニアへ』『それから』などがある。第二の故郷であるヴェネツィアの詩篇は、その土地や人々への情愛が込められていて有名であるが、なかでもギリシャ神話の女神が登場する長篇詩「四季の神」はひとりの友人との別れをもとに、ある時期の文明を語った代表作の一つである。天候、特に雲の生々流転を描いた「雲』、家族や晩年の生死について書かれたものなど永遠に繰り返されるテーマの詩篇がある。それらは喩から喩へと、ことばが持つ機能を増幅させながら、私たちの心を打つものである。