私の好きな詩人 第39回 – 小川三郎 - 久石ソナ

 とあるファミレスに入った時の出来事。僕はトイレに行こうとして店内を歩いていたら、ある家族連れの席で現代詩手帖を読んでいる中学生くらいの女の子を見つけた。トイレに行こうとしていた足は驚きのあまり止まってしまって(そのあとすぐにトイレに駆け込んだが)しばらく気になってしかたがなかった。

 中学生くらいの子が現代詩手帖を読んでいることにも驚きであったが、ファミレスで詩を読むということ(もしかしたら座談会や書評を読んでいたのかもしれないが)に僕は素直に驚いた。

午後の電車の一番うしろで 
つづく線路をながめている。 
線路の左右には 
ひとの住む世界が平たくひろがり 
家々がしんしんと降り積もっている。 
その真ん中を 
電車は知らん顔で走りぬけて 
時折警笛を鳴らすときだけ 
かすかに世界とかかわっている。 
赤茶けた線路が美しい。 
この世界のどこかで私は生活している。 

(小川三郎「午後の電車」所収「六本木詩人会」より)

 僕はこの原稿を部屋で書いているが、この詩を読んだ時、僕は午後の電車に乗っている感覚に襲われる。小川三郎氏の詩は詩に描かれた世界へ読者を巻き込み、その主体の考えを良い意味で鵜呑みにさせるのである。

海底の砂には宇宙が落書きされている。 
伝説にも語り部にもなりたくない私たちは 
星座を注意深く避けて歩き 
別の大陸へと到達し 
そこもまた砂漠であって 
あってもなくても 
駱駝と私である私たちに変化はない。 

(「惑星」所収『コールドスリープ』思潮社より)

 

 ファミレスで詩を読んでいたであろう女の子はファミレスの喧騒から逃げていたのであろうか。詩に描かれた世界に一人、浸っていたのであろうか。

川にテレビを捨てに行く。 
昨日は子供を捨てに行った。 
まだ食べられる野菜も 
食べられる肉も 
毎日川へ捨てにいく。 
そうして部屋を空っぽにして 
過ごしたいけど、捨てても捨てても 
買った覚えのないものが増え 
私が私でなくなっていく。 
 
 
(中略) 
 
 
子供はもう大分捨てたはずなのに 
また増えている。 
死んでしまった子もいる。 
そうしたら匂いになって残り 
ある段階を過ぎたら、見えなくなり 
音もなく、一艘の船が近づいてきて 
子供をここから引きあげていく。 
 
 
盲目であることが、私の唯一の救いである。 
子供を引きあげてくれる者の顔 
その顔を、私はむかし 
教科書で見たのだったが 
もうたくさんだという顔をしていた。 
私はその顔をずっと信用しなかった。 
なのに結局はそういう顔に 
最後は引きあげてもらうしかない。 

(「顔」所収「ポエームTAMA66号」より)

 小川三郎氏の詩を読んでいるとぼんやりとした不安や恐怖がじわじわと迫ってくる感覚に襲われる。けれども、その感覚は外部の灯り(情報)によって、「不安とは不安と言う意味であっただろうか」といったぼんやりとした感覚にさらに霧をかけている。そういった漠然とした、何もかもつかめない感覚が部分的に日常生活と被さっているのではないだろうか。現実からちょっと離れた所へ、読むたびに小川三郎氏の詩は僕を迷い込ませるのである。

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