私の好きな詩人 第41回 – 八木重吉 – 永澤康太

海の底から、空の底まで、ゆうらんゆうらん、赤い風船がのぼってく、ひとつじゃない、無数のそれが群れとなって、気泡のようにてんでばらばらに、さまざまな軌道、さまざまな速度で、のぼってく、すぐにこわれるものもある、中空にかおを出したあたりで、海鳥についばまれるものもある、それでもほんのいくつかのものは――天井をめざしのぼってく、何を約束されたわけじゃない、上空は更な風が吹いてる、乱気流が渦巻いている、みえなくなるまで目で追うが、そこから先は祈るのみである、願いをこめることしかできない、結末を知ることもできない、それでも信じることをやめない、届くと信じて祈り続ける――

なにものも玉にすることはできない、ならば自らが玉になろう――八木重吉はこういった。この、赤い、風船は、重吉のなかから流れでた、一滴の血であり、涙である、ひりひりするような、痛ましい正直さと引きかえにそれは非常な浮力を持った。贖といい、十字架といい、何もかもを捨てたという――けれども何もかも捨てられない、妻子もある、詩も例外じゃない、ジレンマに苦しむ、人間臭い姿がここにある。

敬虔なクリスチャンにとっての神が、どういうものなのか――無宗教のぼくには知る由もない。また、重吉のなかで、死ぬまで抱えつづけたであろう理想との乖離が、どれほどの苦しみをもたらしたのかも、同様である。ただ何かを信じ、信じ抜き、その一点のみをひたすら掘り下げ、引き上げられた――ことばの純度にうたれるのである。それは、くらいくらい産道をとおって、やってきた、はだかのあかんぼの姿である。くりくりのめで、こっちをみてる。ゆげのたつような生まれたての言葉がそこにある――

 この道をとおらねばならぬ―ーそんな重吉の声がきこえる。重吉にはひとつの意思がある――もっとも弱き者、、底辺でうずくまっている者、絶望の淵にたたされてる者、そんな者たちを――もとっも高きところに繋げたい、そして自らが、その体現者となりたい、静かだが力強い声がする――重吉にとって神の道とは、そういうものではなかったか。それは等しく――産道をくぐりぬけ光をみるあかんぼであり、誰でもない者として生まれてき、誰でもない者として生き、誰でもない者として去りゆくことへの願いであり、ゆえの葛藤であり、信仰とは、詩とは――そういうものではなかったかと――そう思う。

 ここに、飛び立てなかった石がある。海の底に残されている、ごろごろごろごろころがっている、石の群れがある。みな神妙な面持ちをしている。あるいは眠ってるのかもしれない。けれどある人はいうだろう、そのなかをちょうちょが飛んでるのだ、そのなかには大空があり、ちょうちょが自由に飛んでいるのだ――と。石はいまも叫びつづけている。聞こうとする者だけにきこえる。

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