現代詩、と限定するよりも日本語の言葉が好きで、言葉という大きな括りの中で私は一体、誰のどんな言葉が好きなのか。
現代詩、は正直に言って詩集を手にして熟読したものは一冊もない。それこそ、学生時代に受けた授業の教材として触れたくらいで、現代詩手帖を買っても詰んだままだ。
じゃあ好きな詩人もなにも、ないんじゃないの?
と言われてもしょうがない、だけど好きなものは好きだ。
谷川俊太郎さんが描く詩の世界に散らばる言葉が好きだ。
人の数だけ現代詩に出会うきっかけが存在している、出会って、その作者の作品が好きか嫌いか、興味もなく忘れてしまう人もいるだろう。
谷川さんの詩の言葉はやわらかくて透明で重たい、この不思議な感覚に出会ったのは私が中学生の時だ。秋の文化祭で行われるクラス対抗の合唱で聞いた、谷川さんの詩を基にした合唱曲「春に」の、もやもやした心の様子が分かりやすい言葉に具現化されていて、そうそうこれだよ!と共感を覚えたが、結局、私は中学生の間に「春に」を歌うことはなく
声にならないさけびとなってこみあげる
この気持ちはなんだろう/合唱曲「春に」より
と、煮え返る想いを掌で握りつぶし、じっと聴いていた。
クール・ジャパンもなめてはいけないと思う。
たまたま、歯医者の帰りに立ち寄った小さな書店で購入した漫画『少年ノート』鎌谷悠希(作)/講談社モーニングKCは合唱部を題材に、作中で合唱曲としての「二十億光年の孤独」が取り上げられている。物語の冒頭に「春に」も引用されているが、「二十億光年の孤独」をどう歌えばいいのか悩む、中学生の少年少女の感情と絶妙に絡み合い、「春に」を歌いたかった中学生の自分を思い出す。唐突に「二十億光年の孤独」の合唱を初めて聴いてみた。
人類は小さな球の上で 眠り起きそして働き
ときどき仲間を 火星に仲間を欲しがったりする合唱曲「二十億光年の孤独」より
地球と人類の比率が逆転して、科学と文学と夢が融合している、小さくてシンプルで濃密な世界に、絶賛ニートな私も生きていると思われる、ものすごい疎外感に包まれて孤独だ。
水のようにつかみどころがない不思議な言葉は私の頭の中で渦を巻き、音符の上に乗った詩は喉の奥から迫り上がって来る。
谷川さんの言葉が持つ引力の強さに憧れるが、引力にあらがえないまま平伏してしまう、私自身の言葉がいかに弱く曖昧なものか、突きつけられて悔しくて、大好きなのに、ひがんで反発したくなる、反抗期の私に出口を示すのは、谷川さんの作品だ。