「何か面白いことはないか」という嘆息が、ロマンティシズムの根源であるといったのは、高見順だったか。伊東のこの詩にこのような感興や劇性はない。日常のなんでもない光景。そこに、当時の日本の家族がいる。そしてただそれだけが、詩という時間の中に昇華されて浮かび上がってくる。
春淺き 伊東静雄
あゝ暗(くら)と まみひそめ
をさなきものの
室に入りくる
いつ暮れし
机のほとり
ひぢつきてわれ幾刻をありけむ
ひとりして摘みけりと
ほこりがほ子が差しいだす
あはれ野の草の一握り
その花の名をいへといふなり
わが子よかの野の上は
なほひかりありしや
目(め)とむれば
げに花ともいへぬ
花著(つ)けり
春淺き雑草の
固くいとちさき
實(み)ににたる花の數(かず)なり
名をいへと汝(なれ)はせがめど
いかにせむ
ちちは知らざり
すべなしや
わが子よ さなりこは
しろ花 黄い花とぞいふ
そをききて点頭(うなづ)ける
をさなきものの
あはれなるこころ足らひは
しろばな きいばな
こゑ高くうたになしつつ
走りさる ははのゐる厨の方(かた)へ
『春のいそぎ』より
薄明の、点景。しつらえられた擬古文調の詩句が、実時間を捨象しているようでいて、実はその描写は、五官を駆使して克明ですらある。つまりなんでもない平板な日常の時間をロマン的な記述で粧ってはいるが、主題自体はアンチ・ロマンティシズムに傾いている。
ここにあるのは、この齟齬を放擲してしまおうとする意志である。ただ一瞬の時を、詩において永遠へと流産させてしまう情熱。諦観に根差した狂おしさとも言える。
「あゝ暗(くら)」とは、娘の肉声であろう。詩人はある春の初めにそうした無辜の声を聴いた。名もなき草花を手に部屋に入ってきた子がその草の名を問う。詩人はその名を知らない。
民の草が眼前にあり、か弱き幼な児が発する関西イントネーションの「ああくらっ!」という声が民の音楽として響く。
詩人の陰鬱は蒼く、暗がりのなかに広がっている。そして燦々と陽光が満ちる屋外から暗がりに飛び込んでくる子供とまばゆいばかりの純朴なノイズ。色彩と音楽が、詩の世界でいっきに再現される。
ただ花鳥風月といってしまえばそれまでだろうが、詩人の官界に巣食う自然は、言葉の魂魄に湿潤されて、呼吸しはじめる。
伊東静雄のなかにあるナショナルなものへの傾きは、むしろ大きな世界なのではなく、それは身の丈の感受に殉じた小さなリアリズムであったのだ。
「好きな詩人」というテーマであるが、詩を書きだしてからははっきりとその像が結ばれない。ぱっとすぐに浮かぶのが、八木重吉や蔵原伸二郎、逸見猶吉だったりする。また別の角度から浮かんでくるのが、高見順であったりする。ただ、別の雑誌にもう20年近く伊東静雄論を連載しているので、いくつかの詩篇が即座に想起される。この「春淺き」は、伊東らしさがもっとも濃厚であるとぼくはいつも感じている。