「純粋って? いったい何のこと?/地獄の舌は/萎えている、あの門の前で」小悪魔的とでもいおうか、刺激的な「体温一〇三度」の書き出し。その愛嬌(?)に悦びさえ感じる。
神は細部に宿るといわれるが、シルヴィア・プラスの詩は、一篇の中にふんだんに比喩が使われ、隅々まで丹念に書き込まれていて、さながら華麗なレリーフのような印象を与える。神話的な主題やトラウマ、アンビバレンス、死への志向といったこの詩人の不安感に満ちた内なる問題がそこここに顔を出しているとしても。例えば「パーラメント丘陵」では、「このむき出しの丘の上で 新たな年が刃先を研ぐ。」と始まり、二連目ではカモメの姿が「風に舞う紙切れ/それとも病人の手」と形容され、三連目では「街が砂糖のように溶けてゆく。」といった具合に。
そのテクニックと衝動に近い詩人の切迫した生(或いは死)の実感があいまって、詩は迫力を帯びて私の心を揺さぶる。痛々しいものに個人的にシンパシーを感じてしまうからでもあるし、作品の華やかな魅力に惹かれるからでもある。
迫力という点で言えばやはり「甦りの女」が凄い。「わたしの傷を見るのにも、お代が要るよ、/この心臓の音を聞くのにも―本当に動いているんだから。」痛々しさなど遥かに超えて、人間にとって永遠のタブーである死に命を賭して素手で掴みかかるという危険を冒し、死と再生、生き直しを生身で体験した故の凄味に、それをパワフルな詩作品に昇華した力量に、言葉を失う。
とはいえ、つらい生が作品に昇華する瞬間の興奮は一時的で、優等生の表の顔とは裏腹に、大抵はこの世そのものへもアンビバレントな感情を抱いて不安に苛まれていたことは作品からも窺えるし、想像に難くない。ところが、その不安感こそが、過剰なまでの周囲の物への感情移入を促し、擬人化して詩に書き込むという技法につながっていたかもしれない。「嵐が丘」の終連の中ほど「草は狂って自分の頭を打ちつけ続ける。/このような場所で生きるには/草は敏感すぎるのだ。/草は暗闇をこわがっている。」などは例である。こう書かざるを得なかった詩人の心情を差し置いても、このような表現は作品を一層魅力的にしているし、ユーモラスでさえある。
シルヴィア・プラスにおいて、主題と技法は密接につながっていたのではないかということを再確認した。その両方に惹かれるからこそ、その詩集をひもといては、刺激を大いに受け、私自身もまた詩作へと促されるのである。
(翻訳は『シルヴィア・プラス詩集』吉原幸子・皆見昭訳『湖水を渡って』高田宣子・小久江晴子訳 共に思潮社 による。)