好きな詩人についてということだが、そんなに次から次へと語れるほど、他のひとたちは好きな詩人と呼べる詩人がたくさんいるのだろうか。「好き」というのは、とても特別で大切な響きがあるように感じるので、そんなにたくさんの詩人に使えないと思うのだけど、どうしたらいいだろうか。かといって、あまりに想定内と思われるような詩人の名をあげることは、それはそれでへそまがりのわたしとしてはいやだなあと思ってしまう。
さて前置きはこれくらいにして、ちょっと変化球な詩人の名前をあげてみよう。わたしが読んだ中で心にしまっておきたいと思える言葉を紡いだ、そして少なからずわたしを詩を書くことへ導いてくれた一人という意味で紹介できたらいいと思う。
そもそも平岡あみの詩に出会ったのは、「詩とファンタジー」の前身、「詩とメルヘン」で彼女の特集をやっていたときだった。彼女とその母親である平岡淳子さんは、共に産経新聞の「朝の詩」(新川和江選)の年間賞を受賞している。
こもちししゃも
おさかなは だいすきだけど
こもちししゃもは たべられません
おかあさんとこども いっぺんになんて
平成13年12月26日 産経新聞「朝の詩」より
後に母親である平岡淳子さんとの「半熟たまご」という詩集を知ることになるが、その詩集はわたしが初めて自主的に買った詩集と言える。当時、平岡あみさんは7歳くらい。作品はどれもごくシンプルな言葉で感じたことを素直に述べているとも言え、そういった意味ではもちろん円熟した詩人の放つ詩とは違うかもしれない。
しかし、子供の詩を一過性のものとしてとらえ、「あれは詩とは言えない」といったようなありがちな物言いをする人がいるが、だから何なの?と思ったりもする。いいじゃない別に。それに子供特有のというがいったいどれくらいの子供がそういった言葉を紡げると思っているのか。大人の詩人だって様々だろうにと思うのだが。
とはいえ、別に子供特有の豊かな叙情を汲んで欲しいなどというつもりではない。もっと書くことの基本となることを伝えたいだけだ。平岡あみの詩にしっかりと存在するそれ、詩人として大切なことを感じ、時に「俺流」ですっかり場慣れしてしまった自分をニュートラルに戻すのもいいではないか。
なぜならそこに詩人としてのまなざしの原点があるから。その原点を失ってはいくら技巧を磨いたところで魂がはいってないことになる。自分の世界に慣れてしまったわたしたちが時に見失いがちなものがそこにあるはずだ。
だから時にわたしたちはこのまっすぐな言葉に触れることで、自分自身をリセットしてみてはいかがだろうか。