最近の詩を読んでいると、「ああ、詩って長いな」と思う。短詩型と比較して、単に文章が「長い」という面もあるが、詰まるところ「退屈」なのである。その要因のひとつとして、詩が「読み物」としての面白さを喪失していることが挙げられる。詩が人生を改行するものに過ぎないのならば、表現を競う場所としての「現代詩」はその役割を終えるだろう。
詩人ね。どうかと思うよ。気持ちの問題だなあれは。別に書かなくたっていいんだそんなもん。マジで書いてる方がどうかしてるよ。黙っていればいいんだ。そうだよ、これからずっと黙ってよう。それで時々ボソっと一言、ね。意味アリゲナ。それがスナフキン的ポジションというものだ。でも、ズルイねあれは。そんなポジションが通用するのかね、今の世の中。まあ無理だろうな。無理だ。(「アストロノート」より)
松本圭二の詩に初めて出会ったのは、『詩篇 アマータイム』(思潮社)だった。そのレイアウトも然ることながら、読後に圧倒的な爽快感が身体中を駆け巡った。「これだ!」と感じた。その後、「現代詩手帖」での連載「電波詩集」を毎月楽しみに読んだ。連載詩で毎回何が出てくるのか楽しみだったのは、他に瀬尾育生の「アンユナイテッド・ネイションズ」くらいである。「読み物」として、「現代詩」が面白いと感じた至福の時間であった。
近代以降、「口語自由詩」は、詩の定義の曖昧さをもたらした。「表現の自由」の地平において、人々の中で詩は「自分の思いを自由に書くもの(書いていいもの)」という定義を得た。そして、それと並行して、作者と表現が「セット」で見られるようになった。そうなると、作者の「人生」も作品と同時に見られるようになる。
例えば、石原吉郎の作品を読むとしよう。そこでは、彼の「シベリア抑留」という「経験」がフィルターになり、読む者は3Dメガネのようにそれ越しに作品を読むことになる。無論、作者と表現を完全に分離することは出来ない。だが、逆にその両者が完全に重なることもありえない。それこそが、表現の可能性を押し上げる「原理」なのである。その「原理」を松本圭二は充分に自覚して、作品を創り出している。
松本の詩の中には、自らの仕事や生活について言及する場面も少なくない。だが、そこには、強固な「虚構」の皮膜が存在し、現実と言葉の安易な癒着を決して許さない。それは、詩に対する彼の潔癖な態度を示している。また、松本圭二はどれ程「詩人」を批判的に描いても、最後まで詩を手放さない。その強い想いは、1万行の長篇詩「アストロノート」が証明している。作品の中で、彼は「詩人」を充分過ぎる程に演じ続けるのだった。
一冊の詩集に三年もかけるなよ。金が無い?じゃあ金があったら毎年三冊出せるか?俺は出せるよ。だからなあ、金をくれ俺に。(「アストロノート」より)