こだまでしょうか 金子みすゞ
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
そうして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。
(注)表記はACジャパンのCMのまま
『こだまでしょうか』(金子みすゞ)
東日本大震災発生から、気が遠くなるほど繰り返しTVで放送されている詩「こだまでしょうか」。収録詩集『わたしと小鳥とすずと』(金子みすゞ)にすでに一万冊を超える注文が殺到しているらしい。
件の公共CMを制作したACジャパンによれば、「やさしく話しかければ、やさしく相手も答えてくれるコミュニケーションの大切さを訴える内容」とのこと。CMでは確かにそういう解釈になっている。しかし、本当だろうか。ぼくにはとても「コミュニケーションの大切さ」を称揚している作品とは思えない。
映像に惑わされずに読むと、なんだか異常な対話だ。あどけない子供たちの無邪気な風景とだけ解釈しては、この詩を読み間違えるのではないだろうか。
この詩を詩として成立させているのは、言うまでもなく最後の「こだまでしょうか、/いいえ、だれでも」という部分だ。この、握っていた手をいきなり離すような終わり方。むろん論理的解釈は不可能で、ここにあるのは「いいえ」という対象が曖昧な否定と、「だれでも」という受容とその後の余白につづく諦念めいた空虚みたいなものではないか。
発話者がぽつんと一人いて、自分の影と対話しているみたい、とでも言えばいいだろうか。そんなイメージが伝わってくる。滲み出す孤独と欠如。作品がまとっている空気はとてもさびしい。