第一課―――ある「詩の教室」で 安西 均
ある夜、テレビで観ました。遠い貧しい国の、飢ゑて
しなびた子供が、自分の頬を伝ふ涙を舐めるのを
まるで一滴(しづく)の塩水すら欲しがってゐるやうな小さな舌!
で、床の広告ちらしを拾って、裏に書いてみました。
近頃とんと書くこともなくなった、文字を一つ。
―――涙
でも、文字一つでは何やらさびしくて、書き足します。
―――涙 一滴の海
だって涙はすこし塩っぽいものです。
さて、涙と海を逆にしてみたら、どうなるでせう。
―――海
と書いて、これも文字一つではさびしさうですから、
―――海 宇宙の涙
みなさん、書くことですね、まづ。書きさへすれば、
狭い紙の上にだって、凪(なぎ)も時化(しけ)もひろがってきます。
あなたの想像力(イマジネーション)が目を覚ましたのです。
また、水の惑星といはれる、涙ぐんだ地球も、
無限に暗い宇宙のなかに、ぽつんと浮かんで見えてきます。
その時、あなたの瞼には、自分でも不思議な涙が、
しづかにわいてくるでせう。さうです、
詩はペン先を涙に浸して書くものです。
「晩夏光」(1991)より
講座などで初心者から詩の書き方を質問されることがある。そんなとき、この詩を参考に読んでもらう。詩作の要諦をわかりやすく述べているだけでなく、ひとつの作品としても良く出来ており見事だ。
TVで見かけた、貧しい国の飢えた子供の涙をきっかけに、涙が「一滴の海」に、海が「宇宙の涙」に、ついには「水の惑星・地球」に、魔法のように変貌していく。これが詩の力だと思う。
そして、漆黒の宇宙に、「涙ぐんだ地球」が「ぽつんと浮かんで」いるところまでイメージは広がっていくと、私たちはたまらない寂寥感に包まれてしまう。子供も大人も関係ない、貧しい国も豊かな国も関係ない、一人の人間が決して逃れることの出来ない孤独とでもいうべきものが浮かび上がる。
しかし、こんなに誉めておいて何だが、最初に登場する貧しい国の飢えた子供に対する扱いが、どこか他人事のように見えるのは気になるところだ。その子供にすれば命に関わる切実な涙を、たんたんと詩の教材にしてしまうあたりが喉に刺さった小骨のように引っかかって仕方ない。
けれども、そういう思いすら不十分かもしれない。単に対象に感情移入するばかりでは、作品にならないのは創作の真理。なるほど、どう足掻こうとも今の日本の私たちは、飢えて自分の涙をも舐めようとする子供と同じ場所に立つことは出来ないだろう(また別の過酷があるとはいえ)。謙虚にそう思うし、冷徹にそう考えることも立派な見識に違いない。簡単に答えは見つからないが、そう考えることも「詩の教室」にふさわしい。