三月 鍋島幹夫
皿が割れている
かたつむりがころがっている
その部屋を飛んだこともあった
蝶の羽根が無残に散らばった
海辺を歩いたこともあった
少女の頭を抱く男の腕は骸骨
そんな日々も見た
だけど何だろう これは
鳴き声が喉につかえる
翼の下の気流がうるさい
かたむく
地平がかたむく
覆いかぶさってくる
上昇する体温
空がこんなに厚い壁だったとは
ちぢんでいく
翼がちぢんでいく
足がちぢんでいく
水にもどりたい
生殖器がもりあがる
後尾に水圧を感じる
切れる
つかめる
だけど 遠くへひっぱられるこの感じは
わたしたちのなかのトカゲが呼ぶ
ワニが呼ぶ
サンヨウチュウ アメーバー そのなかの
簡素な一本の管がなつかしい
やがて 入り口から出口まで
音楽でいっぱいになったら
満月に足をかけ
腰をかがめる姿勢をとる
(詩集『三月』より)
冒頭にあるのは、何かが破裂したような光景だ。これを春の三月の光景というには、あまりにも凄惨で、濃密な死の匂いが漂ってくる。
しかも、主体が明らかにされない。どうやら翼を持つ《鳥》か、その類いらしいことは分かるが何者かは明示されない。
正体不明な翼を持つ《主体》には、何らかの異変が起こっている。体温が上昇し、翼がちぢみ、手があらわれ「つかめる」ようになる。どうやら、人のようなものに変化していくらしい。同時に、進化の途中の記憶だろうか、ワニやアメーバーまでもがかれに呼びかけてくる。「簡素な一本の管がなつかしい」という魅力的な一行があって、音楽で満たされると人になっている、というのだ。
ただし、この一連の展開をストーリーとして受け止めたのでは、この詩を読んだことにはならない。あくまで、この作品の奇妙なまでのイメージの展開を味わってほしい。冒頭の凄惨な死のイメージから始まり、この詩を読んでいると、まるで映画を逆回しで見ているような、あるいは映像がフラッシュバックするような不思議な感覚にとらわれないだろうか。そこにこの詩の魅力の秘密がある。読者は、《主体》と共に凄惨な光景を見、「何だろう これは」と混乱しながら変身を生々しく体験する。このとき、世界の隠された記憶の一端に、わたしたちはアクセスするのだ。
作者は世界には破壊や死が満ちていると知っている。そのうえで、生命の連鎖があり、矮小な、しかし、音楽に満ちた生の輝きもある、と。それをコトバで見つめること、触れること。この詩の醍醐味はそこにある。