四十三番 雨あがる
左
降り止みて牛に湯気立つ夏野かな 三森鉄治
右勝
法隆寺白雨やみたる雫かな 飴山實
左句を収める句集は、自然詠の占める割合が非常に高く、昨今では珍しい、骨太で清爽な空気を湛えている。巻頭からして
去年の雪吹き上げて甲斐駒ヶ岳
と、句跨りを駆使した、格調高い大景ではじまる。
種芋や雲脚はやき秩父口
裏富士に正午の日あり青葉木菟
稲干して巨摩野がらんと月夜なり
この調子で、昨今の流行などには全く右顧左眄しない、剛直な自然描写がこれでもかと続く。もちろん大景ばかりではなく、
杉苔に日の斑ゆらめく夏茶碗
塔からも垂れて鵯上戸の実
というような濃やかな視線を感じさせる句も少なくない。とにかく恰幅の良い立派な句集で、言葉遣いもスタイリッシュで少しも乱れがない。いわゆる安心して読める、とはこのような句集を指して言うのであろう。安心の余り、しばしば眠くなったことも告白しておかねばならぬが。
掲句もまた堂々たる叙景句。集中には他に、
奔放に地の烟りたる穀雨かな
との作もあって、雨の潤いによって地靄なり湯気なりが立ちのぼる景に、作者が興じて倦まないさまがうかがえる。なんとしても中七の「牛に湯気立つ」がシンプルに決まっていて、動かしようがない。言葉の動かしようのなさが、雨が降ろうが止もうがかまわず、一心に草を食み続ける巨大な肉塊の動かしようのなさと、パラレルの関係を結んでいるかのようだ。じっとり濡れた牛の皮膚から濛々と立ち上る水蒸気。夏の太陽に炙られて、その皮膚はたちどころに乾いてゆくのに違いない。
このように、左句もすぐれているが、しかし、右句には一歩を譲らねばならないと思う。なぜなら右句では、これも動かしようのない言葉の向こう側、なだらかに整った姿のうしろで、視点と時間の激しい運動がくりひろげられているからで、左句より内容が格段に複雑になっているのである。「法隆寺」と置かれた上五で大きく広がった空間と歴史的過去へ伸張した時間は、「白雨やみたる」と展開することでたちまち近過去から現在時へと巻き戻され、さらに眼前の「雫」の景へと収斂する。しかも、ひとたび眼前に結ばれた視線は、切字「かな」の余韻のうちに「法隆寺」という固有名詞の引力を浴びて、広大な境内を縦横に走る軒からしたたる無数の「雫」の幻想へと打ち返されてゆくであろう。視線のこの収斂から開放への運動に伴って、時間もまた開放される、そうも言ってみたい。必ずしも過去に向かってではない。むしろ過去も現在も未来もない時間に向かって、である。心にくいのは作者が「夕立やみたる」とせずに「白雨やみたる」としていることで、これにより、雨上がりの日差しを受けた「雫」の「白」い輝きを、言わずして印象づける効果を上げている。そしてそれは、いま述べた時間の開放に資する効果なのでもある。というわけで、右勝。
季語 左=夏野(夏)/夕立(夏)
作者紹介
- 三森鉄治(みもり・てつじ)
一九五九年生まれ。「雲母」を経て「白露」所属。掲句は、第五句集『栖雲』(二〇一一年ふらんす堂)所収。
- 飴山實(あめやま・みのる)
一九四七年生まれ、二〇〇〇年没。「風」で活躍。掲句は、第三句集『辛酉小雪』(一九八一年 卯辰山文庫)所収。ただし、引用は全句集(二〇〇三年 花神社)より。