日めくり詩歌 短歌 斎藤 寛 (2011/12/2)

棒切れをくはへて戻り尾を振りて犬として犬を在る犬がゐる   香川ヒサ


 

第3歌集『ファブリカ』(本阿弥書店刊、1996年)より。哲学短歌とでも称するべき作品を詠まれる方として、他界された浜田蝶二郎さんや、現在「鱧と水仙」誌などで活躍されている香川ヒサさんのお名前が浮かぶ。この『ファブリカ』の目次を見ると、「創造」「自然」「文明」「永遠」・・・というような見出しが並んでいる。おおよそ世間一般でイメージされる「短歌」とは様相が異なっていそうなことは、直ちに察知していただけるだろう。

『ファブリカ』の中でもとりわけ印象深いのがこの一首である。ふつうは「犬」の一語ですむであろうところ、香川さんにとってはそのものが「犬」としての生命体という形態をとった「他者」として「存在している」ということ自体が、大変に不可思議なことなのだ。なぜこの眼前の一生命体は人ではなく犬として生まれたのか。そこに何の必然性があるのか。さらに言えば、この地上の生命はなぜ存在するのか。そこに何の必然性があるのか。さらにさらに言えば、生命の母体としてのこの宇宙そのものはなぜ存在するのか。あるいは、宇宙が存在しないとはどういうことなのか。香川さんの場合、棒切れをくわえて尾を振って駆け戻ってくる犬の背後に、こうした問いが広がってしまうのだろうと思われる。

もとより「神」というような存在に信を置けば、何らかの「回答」を出すことができる。しかし、《神はしも人を創りき神をしも創りしといふ人を創りき》《人はしも神を創りき人をしも創りしといふ神を創りき》《神は今ここに在さじ聖堂に並ぶ木椅子に人あらざれば》と詠む歌人においては、一切の信は封じられている。なぜ汝は犬として在り、われは人として在るのか。なぜわれらはこのように在るのか。こうした問いには「回答」はない。このように問う主体がすでに「われ」なのであるから。したがって、ただ、ただ、不思議だという感覚だけが残る。その感覚を言葉化するとこのような一首になるのだろう、という作品である。《ぼろくづとなりて路上にころがれば犬もほどなく犬を終はらむ》(佐藤通雅『美童』)という一首が、この歌によく呼応する作品として想起される。

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