夜半ちかく作業を終へし右の手を左手が来てしづかに包む 岡井隆
『Xイクス―述懐スル私』(短歌新聞社、2010年)より。この歌集のあとがきには、2008年、この歌集の歌を詠んでいた時期と平行して、総合誌「現代詩手帖」で詩編『注解する者』を連載していた時期であることが記されている。岡井は次のようにいう。「詩を書き続けながら、従来通り短歌を書き続けるといふ経験は、わたしにとつて初めてのことだつた。そのことの反映、影響がどのやうに現はれてゐるか。自分としては現代短歌と現代詩といふ二つの表現形式の特徴がはつきりと別れて出てゐると共に、両者が交流してゐることになつてゐれば理想的なのであるが、その点は、今後も経験を重ねて行く外ないのであらう。」(後略)
この方向性の提示によって、私たちはジャンル横断的な試みの一方の断片を読んでいることに気づかされる。また、岡井ほどの経験の豊かな歌人であっても、自らの中で絶えず試行を重ねている。岡井の様々な試行の軌跡を読むことができる歌集である。
掲げた一首は「右手と左手」の中に収められている。岡井の日常らしい、膨大な著述作業そのものに取材している。夜半の、作業が終わった場面、瞠目すべきは「右の手を左手が来てしづかに包む」という把握である。自分の身体の一部であるのに、生命をもった独立した2つの生き物のような違和を作者は感じている。酷使のあとの右の手を、左手が慈しむように「しづかに包む」のである。この独特な身体感覚の表出は、自らの肉体的な老いの要素をも示しているだろう。肉体的な疲れと違和、しかし精神はとぎすまされたまま、それらを客観している。しかし、不思議に岡井は老いを嘆いていない。むしろその違和を楽しんでいるかのようである。
この歌はしかし、私にもう一つの歌を想起させる。《へやの戸を開けてある晝不意識に左の手が右の手をかばふよ》(森岡貞香・『九夜八日』)
この歌の初出は1999年であるから、もう随分前ということになるが、森岡の独特の空間把握と、岡井のそれが類似相をみせていることは、読者の1人としては戦きを覚える。詩と短歌の横断ということについて言えば、森岡もまた横断者であったということになるだろうか。
もうひとつ。岡井隆の自叙、『わが告白』(新潮社、2011年)が出た。題の横に置かれたConfessionという語句は「告白」という意味の他に「懺悔」の意味も含む。自らの歌歴と愛恋の過程が濃密に絡み合って、自身の作品世界を構築してきていることが明かされている。しかし、自叙を出す行為と心境そのものについて、私たちは露悪的興味でもって読むのではなく、敏感に気づくべきものがあるはずである。
- 今年より日めくり詩歌を担当させていただくことになりました、高木佳子と申します。
一年間、よろしくお願いいたします。
執筆者紹介
- 高木佳子(たかぎ・よしこ)
歌人・「潮音」所属。歌誌「壜」発行人。歌集『片翅の蝶』