日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2011/1/20)

環状線出口はなくてとりどりの小さな鏡に目が映っている   加藤治郎

光線のように飛ぶ血を浴びながらわたしはしんそこからっぽだった

加藤治郎歌集『環状線のモンスター』(平成十八年七月・角川書店刊)

一首めについて書く。むろん、環状線に出口がないということはない。出口がないというのは、この日常の現実のことである。「とりどりの小さな鏡」は、ひとびとが手にしている携帯電話や、新品の電子機器のことだろう。その、おのおのが見ているものは、画像だけではなく、その反射板に映っている自身の顔なのかもしれない。がしかし、それは見えないし、気づかれないのだ。普通の人が思いもよらないところに目をつけた、鋭い風刺的な感覚のひらめく作品である。

二首めは、近年続けて起こった刃物を用いた殺傷事件にかかわりのある作品だろう。犯人のからっぽさを捉えつつ、その事件を耳にする私の心も同様にむなしい諦念のようなものに満たされている。それは、犯人のからっぽさの一部を、私も同じ時代を生きながら共有しているからだ。

作者がここにとらえているのは、現代の都市社会における不安である。長く続く不況のせいもあるが、朝の通勤電車に押しあいながら乗っていると、車内を支配している恐ろしいほどの不機嫌と絶望の空気に圧倒されるような感じを受けることがしばしばある。その気配や気分の底に伏在するマグマのようなものを、加藤の作品はとらえようとしていると言えるだろう。

溶けそうな四角いマーガリンがあり怒鳴りあい喚きあい抱きあう
青いテントにすべる花びら項たれて自爆の順にならぶんじゃなく

ここには、ゆえ知れぬ激情の言葉がある。まるで歌のアクション・ペインティングのように、キャンバスに叩きつけられるようにして言葉が踊っている。加糖治郎は、イメージによって自分や他者の内面にあるものを掘り起こす言語的な実験をずっと続けて来た。マーガリンが何で怒鳴りあったり、喚きあったりするのか。それを見るまなざしが、苛立ち、震撼されているからであろう。たぶん詩的な薬味のインスピレーションの素は、アメリカの小説や映画からもらっている。でも、その情念の発出源は、この日本社会である。二首めの「項」は、「くび」と読んで「うなじ」の意味をあらわす。「自爆の順にならぶんじゃなく」という句は、残酷な響きを持っている。

こうした作品に反応するのは、読者の心の内側に蓄積された鬱屈した情念である。そういう意味で、読者が加藤の微量の毒が盛り込まれた作品に接することによってカタルシスを得るということは、あるだろう。こちらの心が傷つき、飢えている時に、加藤治郎の作品は一気に読者の深部に届く。このサラリーマンのいらだちと、うらみに満ちた都市においては、誰もが心の底にモンスターを飼っているのであり、その集合化した無意識のモンスターは、表現者によって鎮められなくてはならない性質のものなのかもしれない。

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