日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/02/15)

「来ないで」と念じても駄目来てしまふ奈良公園の鹿のやうなもの

喜多昭夫歌集『早熟みかん』   (二〇一一年十二月刊・私家版)

今回はユーモアのある歌を取り上げたい。私は奈良公園で鹿せんべいを持っていて、大きな鹿に急迫された覚えがある。これを読んで思わず吹き出してしまった。

この本は年末にポストに投函されていた。はじめに表紙の上の段の「早熟」という文字が目に飛び込んできた。この人は故春日井健のお弟子さんで、師についての著書もあるから、こういうタイトルの本を出すような年齢ではないはずだ、と思いながらよく見ると、表紙に「早塾蜜柑」とあって、ローマ字で「WASE MIKAN」と読み仮名がつけてある。ソウジュク、でなくて良かった。それで目次を見ると、歌集の題となった「早熟みかん(OLカナ 残業のおやつ)」という章が目についた。ん? これは、作者が「OLカナ」に成り代わって詠んだ一連ということらしい。短歌に詳しい人なら、ただちに穂村弘の『手紙魔まみ、夏の引越し(うさぎ連れ)』を連想するだろう。その一連の中に右の歌がある。でも一連には、0Lと言うよりやっぱり中年男ふうの歌もまざっていると思った。別の連から引こう。

投げつけられたウルトラマンが倒れこむ蜜柑畑をまきぞへにして
象が踏んでもこはれない筆箱を持つ友だちよ 嫉妬のはじめ
「ヤバくね? ドーナツの穴を覗けばアリスがお辞儀」

作者は一九六三年金沢市生まれ。ウルトラマンの歌は、旧仮名の使用が、おかしみを増している。「象が踏んでもこはれない」というのは、ずいぶん昔にあった筆箱のコマーシャルのコピーである。あれは、私も強烈な印象がある。教室で実際に買った子が、それを足で踏んで試してみたりしていたような覚えがある。当時の筆箱は、鉛筆が一ダースも入れられるような大きくて角形のものだった。そうして比較的安価なセルロイドの筆箱は、たいていすぐに端から割れて駄目になってしまうのだった。

現代短歌には、江戸時代だったら狂歌と呼ばれていた要素を持つものが入り込んでいる。

中年のわれはなかなか使へない色鉛筆の白に似てゐる
つれづれに気泡緩衝材つぶしついでに僕もつぶしてしまふ
切り株がの中にある夜である 母によく似た鬼が火を焚く

この文章の前半に引いたような歌を作っている時には、自卑と、おどけが、この作者の身上なのだが、テンションを少し下げると、おふざけだけではない、哀愁が感じられる抒情歌となる。

ぶらんこに揺られてゐるのはゆでたまご 落つこちさうでも楽しさう

著者が発行している歌誌「つばさ」に載ってもいた最新作。こういう童画のようなイメージと言葉の使い方に、作者の叙情質の一番いい部分が出ているのだが、それだけで我慢できないのは、いたずらっ気が旺盛だからだろう。作者が短歌関係の話題にくわしいせいもあるが、集中には、歌壇の内輪のごく一部でしか受けないような歌も多く目についた。それは私はあまり支持しないが、こういう歌はいいと思う。

朝詰みの苺をそつと手作りのケーキの上に置きてにける

これは先年夭折した笹井宏之への挽歌で、うまい歌だ。上に示した二首からもわかるように、これだけ高度な言葉の技術があるのに、そのハケ口が見つからず、一冊を通してまとまった説得力のある美学のようなものを生み出すことができずにいるという印象を持つのは、穂村弘の連作の骨格を借りたりするからだ。もっと古今東西の古典や、世界の民俗地理の知識などを参照しながら広いところに出ればいいのに、と思う。余計なものを削ぎ落とすのは、今後の作者の課題ではないか。

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