七十二番 自然を詠む、人間を詠む(五)
左勝
寒昴たれも誰かのただひとり 照井翠
右
この春の月幾たびも満ちんとす 照井翠
照井翠氏は、アンケートに回答を寄せた二十二人の中でも、いちばん深刻な被災をされたようです。氏の回答は感動的と言ってもよいもので、それはもちろん被災の深刻さともかかわるのでしょうが、それだけではないように感じました。
すっかり廃墟と化し、排水溝などから亡骸が現れる釜石を歩いていると本当に辛く気が狂いそうだ。しかし、いつの日かこの町も復興し、それに伴って私の頭の中から夾雑物が取り除かれ、真実私という人間の魂の深さで摑み得た世界を詠むことができるのではないか。師加藤楸邨から学んだことのすべてが、今こそ問われている。
さて、左句の「たれも誰か」は、誰もが固有の存在であるというようなことを言っているのでしょうか。固有であり、そしてみな「ただひとり」であると。これは認識としてはありふれたほとんど陳腐なものに違いありませんが、「たれも誰かの」がリフレインとして利いており、全体にリズムの快さを帯びた句となっています。また、三月十一日の夜は、仙台のあたりでは星空が大層美しかったそうです。「寒昴」はそうした事実も負った言葉なのかも知れません。
右句は典型的な心余りて言葉足らずの句です。というのも、「この春」に月が「満ちんとす」るのは三たび(「この春」を二〇一一年とし、かつ三月十一日以降とした場合の春満月は二回)に決まっていて、「幾たびも」ではないからです。月が満ちてゆくことに対する感動、それが繰り返される時の流れを思いながら、「この命があることに深く感謝」(照井氏のアンケート回答の一節)するという句にこめられた思いはよくわかるのですが、不正確さはやはり興を殺ぎます。ただし、「この春/の/月」ではなく、「この/春の月」と読めば、以上の欠点はなくなります。しかし、こんどは月は何十億年にもわたって満ち欠けを繰り返すことになりますから、それはそれで「幾たびも」の表現は適切ではありません。というわけで、さしあたり疵の無い左勝としておきます。
季語 左=すばる(冬)/右=春もしくは春の月(春)
作者紹介
- 照井翠(てるい・みどり)
一九六二年生まれ。「寒雷」「草笛」所属。句集に『針の峰』。