日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/04/05)

街を包み込む時霧はときおり手の形脚の形にもなる

妻を眠らせ妻の屋根にはいかな愛憎降り積むならん

 菊地孝彦歌集『まなざさる』(二〇一二年三月・六花書林刊)は、第一歌集『声霜』に続く二冊めの歌集である。しかも第三歌集『彼の麦束』と同時の刊行だ。

 「短歌人」に所属。定型は守っているが、故・高瀬一誌の弟子である。二冊めの本の栞は、三井ゆきさんが書いている。高瀬一誌は、独自の口語自由律の短歌を追究した。自分のこだわりに徹した歌人である。その弟子を自認する人だから、自由闊達でありながら、自分の美意識や価値観を頑固に保持する姿勢も、しっかりと受け継いでいる。高瀬も菊地も、とらわれのないところでものを見る修練を積んでいる。作品には、独特の自己放脱感が漂っており、不思議な世捨て人のような言葉を微妙なユーモアに包んで提示してみせる。

切り通しを振り向けばぽっかりと空いた穴からしばしの声はあり
この道を往くと決めたからにはこの道を往く さびしくてよし

 二冊の歌集のタイトルは、どちらも、この世のどこにもないようなものである。「まなざす」という架空の動詞があるとして、それに受け身の助動詞「る」をくっつけた造語であると著者は「あとがき」で言う。簡単に言うと、「見る」ことは「見られる」ことであり、発語の瞬間に「私」という「他者」が立ち現れるのである。作者には自己同一性の物語は、はなから信じられるものではないのにもかかわらず、妻など身近な人々との関係性の中で「私」は、厳然と規定されている。そこに私の意識のありようとの間でよじれが生ずる。その「よじれ」を詩の言葉として語ることと、たとえば「まなざさる」という奇異な用法を編み出すこととは、同じ動機に基づいている。

 第一歌集の出版記念会の時に、作者がラカン派の精神医学を修めた人であるということを知った。だからと言うわけではないが、たとえをもって言うならば、「彼の麦束」は、必ずや「私の麦束」であろう。もともと私の所有であった「私の麦束」は、ただちに「彼」の所有に帰してしまうのである。そうでなければ、会話も詩も成り立たない。が、「彼の麦束」は、「彼」の所有に帰したと同時に一種の謎と化してしまうのでもあって、「私」は日々その問いかけに答え続けなくてはならないのだ。日々の生活が、そのような苦行を強いて来る。作者においては、それが言葉を介して仕事をする精神科の医師としての日常なのだ。呪文のような歌が出てくる所以である。

 
玄関の正しい閉め方はひしめくまなこを締め出すようにする

 これはまさしく高瀬一誌直系の文体だが、妄念や無意識のかげりを一度に遮断する心術を語っているようでもあり、常住坐臥われわれが囚われている一過性のモラルのようなものを定着しているかのようでもある。

  
睡魔来て通り過ぎたるそののちをきらめけり夜のとほき街角
ゆふぐれの掌を脱けいでしてふてふは身めぐりに添ふ添ひてかき消ゆ

『彼の麦束』

 第三歌集の方が、苦悩や、生き難い感じが強まっていて、その分歌も理詰めのものが多

くなっているようだ。だから、かえって右のような美しい歌を見ると、ほっとする。でも、この歌にも、「自己」の境界がゆらぐ時間帯に意識を集中して詩を拾うという操作を心掛けている作者の指向は、一貫していると言うべきであろう。

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