真夜中のシャワーの檻に囚われて目を瞑る 死はやつぱりこはい 藪内亮輔「雨の死角」
普通に人が、死ぬのは嫌だと思っているのは、死んだら、したいこと、したかったことが、もうできなくなるという理由によるようだ。しかし、これはおかしい。なぜなら、死んだら、したいことができないと悔やんでいるところの主体も、無いはずだからだ。
失うことは怖くはないが、死んだら無になる、それが怖い
しかし、これもやはりおかしい。無なら無で、無を恐れている主体もそこには無いはずだから、無を恐れるということも、やはりできないのである。
いや、生の側から見た無としての死が怖いのだ
それならなおのこと、これはおかしい。生の側から死を見るとは、いったいどういうことなのか。無を見るとはどういうことなのか。見えたらそれは、無ではないではないか。
我々には死なんてものは、無いのだ、無なのだ、あり得ないのだ。なのに人は、無であるところの死を恐れる。つまり、現実には「無いもの」を恐れて生きているのだから、こんなに非現実的な態度ったらない。現実を直視せよ。
池田晶子「人はなぜ死を恐れるのか」『残酷人生論』
現実を直視できないからこそ怖いのであり、現実を直視できないということもまた現実なのです、なんていうと天国の池田さんからお叱りが飛んでくるかも知れませんが、それはそれとして、死というのはやつぱりこはいものでありながらも、やつぱらなくてはこはくはないし、考えてみれば怖いけれども、考えすぎれば今度は怖くなくなるような、そんなところがあるものです。
なぜ怖くないかということは、本当に死ぬのが怖くなかったらしい(怖くないまま死んでいったのだろうか、うらやましい)池田さんが十分に語ってくれています。
エピクロス的な考え方でしょうか。生が一個の○なら私はその内側にいて、死は外側にあるから、死と私が巡り会うことは決してない。私は生きているから私なのであり、私が死んだら私ではないのだから、私が死ぬというのは矛盾であり、末期の瞬間にも私は生きていて、死んだ瞬間に私はいなくなるから、私は原理的に死なない。むしろ私の説明の方が分かりにくいかも知れません。
一方で、死がやつぱりこはいのは、怖いと思う時の死が、想像上の死だからでしょう。そんな死は存在しないのだけれど、神が存在しなくても何だかいるような気がしてしまうように、そんな死が存在してしまうような気がしてしまう。
たとえば1時間後に仕事を始めなければならないとします。
ものすごく気が重い。
それはそのことを想像しているからです。仕事をしなければならないのは1時間後の未来であって、今ではない。仕事は未来の私において存在するもので、現在の私には存在しないものである。
つまり、仕事は存在しない。
だから私は未来の仕事に対して気が重いと感じているのではないのです。あくまで想像上の仕事を気が重いと感じている。
死の場合も同じです。論理的に考えた時の死は現実の死です。現実の死は存在しないのだから、それは恐れるに足らない。
けれど想像の死――死の想像といってもいい――は、存在するのです。だから怖い。
死が存在しないことが理ならば、存在しないものが恐ろしいのも理です。
とはいえ、想像は解体可能なものです。ならば、解体してしまえばいい。死の想像を解体すれば、死は怖くなくなる。
池田さんの立場はおそらくここでしょう。禅の立場にも近いかも知れません。
「私たちはいつか死ぬ。死ぬのは怖い」という言葉が呪いだとするなら、「死は存在しない。死は怖くない」という言葉は祓いです。
死は怖くなったり怖くなくなったりするのです。想像は醸成され、強固になって人を脅かし、やがて解体されて、無に戻る。水蒸気が集まって雲となり、それが雨を降らせて消えてなくなるように。言葉が想像を作り、想像が恐怖を生む。言葉というのは、単なる記述ではなく、人の認知に作用する呪文なのですから。
言葉というのは何も人が発したり記したりするものだけではない。あらゆるものが言葉であり、真夜中のシャワーの音も、目を瞑る時の暗闇も、髪を洗う時の背後の無防備も、あらゆるものを言葉としてしか認知できない人間という存在にとっては、言葉なのです。
もちろん言葉など存在しないのですが。