八十六番 鉛筆で
左
えんぴつ一本どれだけの蝶描けるか 小池康生
右勝
鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ 林田紀音夫
左句は新刊の句集『旧の渚』(ふらんす堂)より。この句集は八十三番でも登場したが、再度俎上に乗せたい。
この句は、奇想の句と申してよろしかろうか。無理のない機知が光っており、まずは佳句だろうと思う。ではあるのだが、鉛筆で描く/書くというところから誰しもすぐ想起するはずの右句と比較すると、これはどうも及びもつかない、そのようにも見える。
これは実は『旧の渚』という句集全体に言える不満に通じていて、当世風の句集としてそれなりの水準をクリアしているだけに、当世風の句作りの限界のようなものが露呈している気がしてならないだ。
さいごまであたまの味の目刺かな
家族とは濡れし水着の一緒くた
濯げども濯げども夕立の匂ひ
秋うらら他人が見てゐて樹が抱けぬ
セーターに出会ひの色の混ぜてあり
はまぐりの幸せさうなものを選る
師匠の中原道夫の序文で言及された句や、帯の自選句から引いた。坪内典稔は「e船団」で目刺の句などを挙げつつ、〈認識の見事な句が並んでいる。何かをどのように認識するか、そのことに575の言葉の技を発揮しているのだ〉と述べていて、それはわかる。しかし、にしてもどの句にも隔靴掻痒の感が残るのだ。これがさらに、
縦書きの詩を愛すなり五月の木
十月や詩を詠む空をひろくとり
ような句になると、違和感は決定的となる。ひとことで言えば趣味的ということかと思う。
これは、「認識の見事」さと矛盾する事態ではない。ディレッタントとは要するにそういうものでしょうから。
季語 左=蝶(春)/右=無季
作者紹介
- 小池康生(こいけ・やすお)
一九五六年生まれ。「銀化」所属。
- 林田紀音夫(はやしだ・きねお)
一九二四年生、一九九八年没。掲句は、句集『風蝕』(一九六一年 十七音詩の会)より。