日めくり詩歌 俳句 高山れおな (2012/05/31)

八十九番 百人斬首

左勝

オイイユキアキ草木クサキ怪物ベムカゼ   関悦史

岩波文庫 イワナミブンコクダケタル胡桃クルミカナ   関悦史

関悦史『六十億本の回転する曲がった棒』が第三回田中裕明賞を受賞したということで、少々遅ればせながら記念句合せ。候補作全体のラインナップは知らないが、青山茂根『Babylon』、御中虫『おまへの倫理崩すためなら何度(なんぼ)でも車椅子奪ふぜ』、山口優夢『残像』といったあたりに関句集が競合したのだろうから、審査員も大いに悩んだに違いない。早く選考記録を読みたいものである。

番組したのは、『六十億本の回転する曲がった棒』全九章のうち、いまひとつ人気が無いというか、敬遠されがちと見受けられる、第六章「百人斬首」からの二句。百人一首の暗黒パロディといった感じの百句が並ぶが、かなり無理やりなところもあってリズムの悪い句が多いし、総ルビ付き漢字片仮名混じり文になっているのも何やら難しげで、敬遠されるのも無理はない。最近でも、詩人の杉本徹が同書を書評した中で、「百人斬首」(及び「歴史」の章の一部)について、

作者のたくらみと意図は重々伝わるものの、たくらみと意図が少々強くて、作者が愉しんでいるほどには、どうも愉しむことはできなかった。

と述べている(「ふらんす堂通信」132)。杉本は、ちょっと自分の手に合わない対象と見ると難解とか言って済ませる軟弱俳人とは違うしたたかな読み手であり、実際、この否定的な部分も含めて同書への評価も妥当なものではないかと思う。当方もまた、「百人斬首」は全体としては失敗作だと考えるが、原歌を引き当てながら丁寧に読んでゆくとそれなりに妙趣を得た作も混じっている。中でも頭抜けているのは、藤原敦忠の四十三番歌を下敷きにした一句で、これについては「俳句」誌三月号に載せた鑑賞文をそのまま引いておく。

Eichmannあいひまん(ノチニシテ(モノ((オモハザリ   関悦史

(句集『六十億本の回転する曲がった棒』より)

藤原敦忠の〈逢ひ見ての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり〉の本歌取り。Eichmannはナチスの警察官僚アドルフ・アイヒマンで、絶滅収容所へのユダヤ人移送の責任を問われ、戦犯として処刑された。彼は、罪の大きさにつり合わない小市民的凡庸さという存在のありようにおいて、現代を代表する人格的類型となった。想像力を麻痺させ、システムに従順に生きる者は誰もが潜在的にアイヒマンであり、〈物ヲ思ハ〉ない人なのだ。〈後ニシテ〉のフレーズはまた、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とのアドルノの命題とも結びつく。音と意味のずらし方が軽妙で内容の射程は深い、パロディの傑作。

この最後の一文が肝要なところで、逆にいえば「百人斬首」のほとんどの句は、音と意味のずらし方に軽妙を欠き、ものものしい見掛け程の内容がないがために、杉本のような健啖な読者をしてもあまり愉しめなかったのである。

さて、左右の掲句は、Eichmannの句には及ばないものの、まず面白く読める出来ではなかろうか。左句の原歌は文屋康秀の二十二番歌、

吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ

である。「しをるれば」→「詩ニ老イユキ」は音韻的にはやや離れ過ぎて惜しいが、意味的には悪くない変奏。この句が末尾に「風」の語を持つことと併せ考えると、李賀の「感諷」五首の其三にある、

長安 夜半の秋
風前 幾人か老ゆ

という有名なフレーズを踏まえている可能性がある。作者がそこまで意図していなかったとしても、このような連想が成立するのは、ここに表された感情がそれだけ普遍性を帯びているということである。「秋の草木」→「穐ノ草木」で漢字を変えただけでそのまま。そしてなんといっても一句のキモは、「むべ」を「怪物(べむ)」とひっくり返したところで、これは鮮やかに決まっている。「怪物(べむ)」はもちろんアニメ『妖怪人間ベム』の主人公の面影である。

次に右句は、源重之の四十八番歌、

風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけてものを思ふころかな

が下敷きになっている。「岩うつ波」→「岩波文庫」は見やすいところで、俳句で岩波文庫と来たら、

遺品あり岩波文庫『阿部一族』   鈴木六林男

を思い出さないわけにはゆかない。「のみくだけて」→「身ノ砕ケタル」はまだしも、「く」「み」から「胡桃」を持ってきたのはちと苦しい。だがこの胡桃、岩波文庫ほどの規定力はないにせよ、最も有名な胡桃の例句、

胡桃割る胡桃の中に使はぬ部屋   鷹羽狩行

を呼び出してはいるだろう。傍証として第七章「発熱」に、

胡桃のなか学僧棲みてともに割らる

というあきらかな狩行句のパロディがあるのを指摘しておこう。こうして見ると右句からは、テーブルの上に岩波文庫と割られた胡桃が置いてあるという寛ぎの情景、『阿部一族』を携行していた兵士が胡桃のように頭を砕かれて戦死した状況描写、胡桃の中の部屋で岩波文庫を読んでいた学僧が胡桃と共に砕け散ったという幻想までを、重層的に読み取ることができそうである。

そんなわけで、両句ともなかなかに面白いのであるが、比較すると左句が一層すぐれていよう。というのも右句の重層性は感情的な統一感を生まないのに対して、左句にはそれがあるからである。――この長安の夜ふけ、秋風の音を聞きながら幾人の者たちが老いてゆくのか(全ての人間が老いてゆく)という李賀の叫びと、(俳句なんぞという)詩を弄びながら俺は老いてゆくのかという作者の嘆き節はひとつに重なり、さらに人間よりも高潔な精神を持ちながらなお「早く人間になりたい!」とさすらい続けるベム、ベラ、ベロの悲しみと同期するのである。そしてこの三重奏は、全体として秋風という伝統的詩語の本意に則りつつ、蕭々と「草木」を鳴らしているのだ。左勝。

季語 左=秋(秋)/右=胡桃(秋)

作者紹介

  • 関悦史(せき・えつし)

一九六九年生まれ。「豈」所属。

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