美しい国 永瀬清子
はばかることなくよい思念を
私らは語ってよいのですって。
美しいものを美しいと
私らはほめてよいのですって。
失ったものへの悲しみを
心のままに涙ながしてよいのですって。
敵とよぶものはなくなりました。
醜とよんだものも友でした。
私らは語りましょう語りましょう手をとりあって
そしてよい事で心をみたしましょう。
ああ長い長い凍えでした。
涙も外へは出ませんでした。
心をだんだん暖めましょう
夕ぐれて星が一つずつみつかるように
感謝と云う言葉さえ
今やっとみつけました
私をすなおにするために
あなたのやさしいほほえみが要り
あなたのためには私のが、
ああ夜ふけて空がだんだんにぎやかになるように
瞳はしずかにかがやきあいましょう
よい想いで空をみたしましょう。
心のうちにきらめく星座をもちましょう。
詩集『美しい国』(1947~1948)から
最近、昭和20年前後の詩を読みなおす機会があった。つまり大東亜戦争(第二次大戦)の時期と、敗戦の後と、どのように詩の言葉は変化したのか、あるいは変化しなかったのかを改めて考えたかったからだ。
永瀬清子の「美しい国」は敗戦直後の作品。戦後に、民主主義や女性解放が連合国軍からもたらされ、ひとまず自由な日本になった中での永瀬清子の心情が描かれている。
驚くべきことに、戦争の悲惨や抑圧的な戦時中の日本の在り方を、戦後の作者はまるで季節の移り変わりだったかのように語っている。戦争や戦時体制に加担していた詩人としての自覚もなければ、それらへの能動的な肯定もないし否定もない。ただただ、外部から与えられるものを受け取り、それを真に受けていたところ、戦争に負けて新しい価値観を与えられたので、少々驚きました、といった程度の事を述べている。どこまでも〈他人ごと〉のようで、行為の責任を担うような主体的な〈私〉はどこにも見当たらない。だからだろうか、「敵」だった存在や日本が傷つけた存在にも「語りましょう手をとりあって/そしてよい事で心をみたしましょう」と事も無げに言えるのである。
文学者の戦争責任に関してはさまざまな研究がなされているが、戦後、新しい世の中になって発表されたこの作品における〈不変の受動的心性〉には注目したい。現在でもわたしたちの詩の中に、同様の心性は潜伏していないだろうか。たとえさまざまな制約はあろうとも、個人にはその社会が成立していく上で何らかの加担があるかもしれないのだ。そのことへの怖れや批評性が鈍感であるならば、人は安全な位置から正義を語ることも、出来事のただの傍観者になることも可能なのだ。「美しい国」の陥穽を、わたしたちは他人ごとにせずに考える必要がありはしないか。