新しく植えられし木は義務として立ちいる如しコートの巡りに
ケイタイに余念なき顔つくづくと日本の鼻のつましきかたち
耳遠き父母の会話のかなしけれ聞こえぬからにいさかいもなく
大島史洋歌集『遠く離れて』(ながらみ書房刊)
作者は、飾らない人柄で、とがったところはないけれども、リアリズムの徒らしく、なかなか皮肉な観察眼を持っていて、自分に対しても他人に対しても決して甘くはない。けれども、人情があって良識に富み、しかも知識を誇らず、談論すれば闊達にして、諧謔に富む。慕わしい人柄である。ほんものの「アララギ」直系の歌人というのは、こうでなくちゃいけない。何しろ、小学館の『日本国語大辞典』の編集長だった人だもの。それなのに、大学などに教えるために出ることもせず、そのままゆっくりと退職後の生活に入った。
私は、大島さんにこの人は変わった人だよ、と言われたことがあるが、大島さんにそれを言われてもなあ……。大島さんも、相当に変人だ。平凡なことを言って暮らしていても、どこかで俗世間の枠を超越したところを持っている。それを作者は、あくまでも平俗な言葉で語ってみせる。抑制のきいた「アララギ」伝来の言葉と方法を使って、正確に、端的に表現してみせる。
定年を過ぎてもいまだ吾にある親というもの思いみざりき
芥川多加志二十二歳にて戦死せり胸痛きかな小説「四人」の発見
これは、落ち着いて読むことができる、大人の文芸だ。この歌集の大島さんは、ついに認知症の母上を亡くしている。そういう老いの意味についても、短歌には短歌の認識の仕方があると、私は思う。そうして、短歌は、日常の些事、かずかずの「現象」を容易に形式のなかに取り込みながら、無意味なものと意味のあるものを一つながりに結んでゆく。大島史洋の歌は、そのような認知の場において生きてはたらく力を持っている。だから、読めば励まされるのである。