冬の駅ひとりになれば耳の奥に硝子の駒を置く場所がある 大森静佳「硝子の駒」
「恋愛の反対語」で検索してみると、無関心という言葉がでてきて、なるほどなあと思いました。
が、これは恋愛を感情としてとらえた場合です。
関係や状態、現象として恋愛をみた場合はどうでしょう。
厳密な反対語というのとは違いますが、恋愛に対立するものは、時間ではないかと思ったりします。もちろん他の答えもあるにせよ。
恋愛と時間。50首からなる「硝子の駒」という連作は、そのようなテーマ性を持った作品です。
カーテンに遮光の重さ くちづけを終えてくずれた雲を見ている
祈るようにビニール傘をひらく昼あなたはどこにいるとも知れず
ハルジオンあかるく撓れ 茎を折る力でいつか別れるひとか
くちづけという決定的な瞬間はすでに終わっている。
常に二人は一緒にいるのではなく、逢瀬のあわいには長い不在の時間が横たわっている。
始まった恋愛はいかなる形であるにせよ、必ず終わりを迎える。
尊さと遠さは同じことだけど川べりに群生のオナモミ
遠さが尊さという価値であるなら、恋愛というのは遠さを近さとすることです。
他者と関係を結ぶというのはすべからくそういうことですが、特に恋愛関係においてはそれが純粋に目的化されます。
しかしいかに近づこうと、近さもまた距離なのですから、近さは相対的な遠さとなります。
その近さの遠さの中で、瞬間的に合一を感じる時というのはあるでしょう。
恋愛はそれを志向し、時にはロマンチシズムを駆動して、そこに永遠を夢見ようともします。
けれどそれが激しければ激しいほど、その一瞬が過ぎた後は、彼我の距離というものを思い知らされます。
恋愛というのは一つのクライマックスを志向するものですが、時間はその一点で静止することなく、ただ淡々と流れるのみなのです。
これは君を帰すための灯 靴紐をかがんで結ぶ背中を照らす
逢えなくて読み継ぐ本にきらきらとガジュマルの木は沼地に育つ
遠くなったり近くなったりして夢のリノリウムの廊下に君がいた
会って別れたり、会えなかったり、夢にみたりしながら日々が続く。
恋愛の非時間的な企てを、時間はやすやすと挫く。
人は時間の中でしか生きられず、恋愛を生きることができない。恋愛は時間の中で行うほかありえないのです。
作家の橋本治は小説の本質を、一本の線の中での二つのものの「すれちがい」であると言っています。
恋愛小説は、愛情というもの――つまり“恋愛の成就”を軸とした男の女のすれちがいでしょう。“宝探し”を軸とした男と男のすれ違いが冒険小説。(『風雅の虎の巻』1988,作品社.)
橋本風の言い表しに習ってみるならば、この「硝子の駒」という50首連作は、“恋愛”を軸とした作中主体と時間のすれちがいとでも言うことができるでしょう。“時間”の中で近さ(恋愛)と遠さ(不在)がすれちがっているとも言えますし、“作中主体”の中で恋愛と時間がすれちがっているとも言えます。
そういう意味でこの連作は小説的であると言えます。
湯に変わるまでを待たずに手を洗う不信へ至る青い夢より覚めて
返信を待ちながらゆく館内に朽ちた水車の西洋画あり
エピソードの積み重なりの中で、予感というものが生まれてきます。最初はおぼろだったものは、だんだんはっきりとした形をとってゆく。
これが最後と思わないまま来るだろう最後は 濡れてゆく石灯籠
別れの予感に対立するのは意志です。
途切れない小雨のような喫茶店会おうとしなければ会えないのだと
いつまでということもなく逢いに行く枯れたナズナをちらちらと振り
時間は遠さを作り、遠さは不安を生み出すが、主体はそれに抗うことを知る。
外国の硬貨のレリーフのような横顔ばかりのあなたと思う
かなしみの分け前として花冷えの夜はあり君の背に触れてみる
という風に前半の歌には、あなた(君)はわたしにまなざされるものとしてのみありました。
とどまっていたかっただけ風の日の君の視界に身じろぎもせず
終わりから5首目にこのような歌があらわれるということも、心を動かすものがあります。
バスタブに銀の鎖を落としつつ日々は平らに光って消える
最後の一首をいかに受け取るか。
意志と予感は正しく対立させられ、不穏な別れの予感は回避されたのでしょうか。
あるいは意志と予感はすれちがうばかりで、問題はただ保留されただけなのか。
何にせよ、時間は物語の枠を超えて続いていくのだということだけを示して、この小説は幕を閉じます。
(後篇に続く)