日めくり詩歌 俳句 関悦史(2012/11/15)

王として皆自らや春がすみ   安井浩司

句集『四大にあらず』(1998年)所収。

安井浩司としては平易な句である。

ただしこの句は単に皆が「王」たる自負と安定をもって立っている景を描いているわけではない。安井浩司の句がしばしば難解と目されるのは、どの句にも多かれ少なかれ世界構造への洞察が込められているからだが、この句も例外ではないのだ。

「王」とは権力の源泉として、畏怖すべき自然の力を身に帯びた存在の謂であろう。

この句は、皆が「自ら」であることが、そのまま「王」だと言っている。つまり自己というものの成り立ちを示し、自己を成立させる上で必然的に介入してくる、畏怖すべき力を取り込んだものとして「皆」を提示しているのである(そして、この「皆」が人間のみを指すものとは必ずしも限らない。安井浩司の「うぐい」や「蝶」やその他のものたちが、およそリアリズムの範疇に収まらない観念的身体を持った存在者であることを思えば、ここには己を区切る輪郭を持つ動植物全て、ひいては鉱物までもが含まれる可能性がある)。

この句が平易に見えるのは「春がすみ」が皆を囲繞することで、大地母神に基礎づけられたような世界が形作られているからである。以前の句、例えば《人参が死産の家へおどりゆく》(『中止観』1971年)の「人参」のような、象徴としても隠喩としても意味づけがたい、不吉で唐突な実体感を持つ緊張とは縁遠い。

去る10月8日~14日に開かれた安井浩司「俳句と書」展で、懇親会の挨拶に立った安井浩司は「夢」「夢見る力」という言葉を口にした。それが現今の俳句においては衰弱しているという文脈だったと思う。

「王」の身に畏怖すべき力を支える、あるいは畏怖すべき力そのもののである「春がすみ」は、この文脈では「夢」のことだといってもよい。

展示会で見た安井浩司の書は一見詰屈な構築性を持つ書体ながら、薄めの墨でさらりと書かれており、何より特徴的なのは「止め」「跳ね」の箇所がほぼ全て、すっと抜けていくような「払い」になっていることだった。「払い」の先はすべていずこかの異界へと通じている。ただしその「異界」は範囲を明示し、言語的に定義づけられるような固定的な領域をさすわけではない。

以前、スピカの座談会で「男性俳句」なる論題を出されたことがあり、必然的に俳句における女性性も考えなければならなくなったが、そのときに考えたのは、ラカンの有名な命題「女は存在しない」というものだった。他界への穴を持ち、完結しない存在が「女」なのだとすれば、それは象徴秩序“全部”の中に含み込まれてはおらず、従って存在しないということになるが、俳句定型によって、そうした穴を生滅させ、窺知させる安井浩司の句こそは、作者の解剖学的性別とは無関係に、極めて稀少な「女性俳句」なのではないかと思ったのである(ただしこれは実際の座談では発言されなかったが)。

詰屈な構築性の書字から生まれる「払い」の先は「春がすみ」へ、あるいは「人参」を不意にこちらへ飛び込ませてくる領域ならざる領域へと通じている。それは固定したものではない。一句ごとに、その都度垣間見えるものだ。複数の「王/自ら」という「払い」と「春がすみ」との間に組織される交流も、そうしたもののはずである。

近年の安井浩司の作がわかりやすくなったとしたら、その一因は、非‐領域に「春がすみ」「夢」のようなまとまったイメージを与えてしまっていることにある。それは句に安らかさを与えるが、代わりに非‐領域を実体化・固定化させてしまう危険を伴う。俳句形式と象徴秩序(イメージ)との折り合いがつくことは、両刃の剣なのである。ことに安井浩司の句にとっては。

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