ここにゐては駄目だと叱るいくたりの声みづからの声となしつつ
島田修二『渚の日日』(1983年 花神社)より。
島田修二の生涯はまさに波瀾万丈のものであった。海軍兵学校時代の広島原爆目撃、そして戦後の読売新聞社への入社、突然の退職、そして晩年から死去にかけ、さらには死後に至るまで自らの主宰していた歌誌をめぐる諸々の問題などである。
新聞社を退職しようとしたころ、島田はもう五十歳に手が届こうとしていた。壮年期での突然の退職の決心は歌の道を究めようと思いつめてのことであったと思うのだけれど、家庭を守っている妻の立場から言わせてもらえば、家族には驚天動地の出来事であったに違いないと思うのである。
それほどの決意であるから、当然のごとく長いこと迷った逡巡の軌跡が、この『渚の日日』を支えているのであって、変化してゆく時間軸とともに島田の決心が揺るぎないものとなってゆくプロセスを表した一連は、壮観であり、一人の人間の心理の推移を掴む上で必然のものである。
歌よみが編集記者になりたれば歌やめるわけにゆかぬとぞ言ふ
みづからの残り時間の幻想はひたすら歌に就かしめきわれを
慰留とふ怖れしことのひとつにて頭を垂れて聞く放恣のわれや
短歌では食へぬ筈ぞと言ひにける幾人のこと忘れずあらん
サラリーの語源を塩と知りしより幾程かすがしく過ぎし日日はや
返したるわが身分証しばらくは机上にありつ劇のごとくに
いつたい、これほどまでに島田を突き動かしたものとはなんであろうか。「とぞ」「ざりき」など、ごつごつとした、濁った響きに支えられて、島田は自らの身めぐりを詳細に記していく。それは記録であろうか、それとも記憶に残すためであろうか。
歌のみに、一本に絞ってやっていきたい、ということで、あえて安定の職を辞し、渾身の力を注いでいる現在の人たちをわたしは数人、知っている。その人たちの、生を賭けた歌うたを、いったいどれほどの人がその重みを認識しながら読んでいるだろうか。大量消費の時代にあって、歌もまた非常な速度で消費されてゆくのをわたし自身、看過してゆくしかできていないのではないかと思う。ひとつずつの歌の重さを改めて考える。そして、島田の歌が形成されていった時代というものを、今またうらやましく思う。